アンドレ・ジッド著『一粒の麦が地に落ちて死ななければ』を思い出しました。20歳頃一度読みましたが、内容を覚えておりません(哀)。確か、告白本だったような……
アンドレ・ジッドは同性愛者でしたが、ピューリタン的な部分も強く持ち合わせていました。だから、この告白文ともいうべき本のタイトルを『一粒の麦が地に落ちて死ななければ』にし、タイトル通りの意味で、書いたのだということでした。戦前のフランス人ってすごいなあと思ったように記憶しています。
アンドレ・ジッドはわきに置いておいても、この言葉の意味はわかりやすい。タネは地に蒔かれなければ、芽が出ません。まず、自分が身を投げ出さなければならい、それがいい影響を及ぼすと信じて。
ヨハネによる福音書 第12章
過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。
イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。 その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、
「なぜこの香油を300デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」
彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
イエスは言われた、
「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」
その翌日、祭にきていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞いて、しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、
「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」
イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは
「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる」
と書いてあるとおりであった。
弟子たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてあり、またそのとおりに、人々がイエスに対してしたのだということを、思い起した。
また、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたとき、イエスと一緒にいた群衆が、そのあかしをした。群衆がイエスを迎えに出たのは、イエスがこのようなしるしを行われたことを、聞いていたからである。
そこで、パリサイ人たちは互に言った、
「何をしてもむだだった。世をあげて彼のあとを追って行ったではないか」
祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。
ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた。
すると、イエスは答えて言われた、
「人の子が栄光を受ける時がきた。 よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。
もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。
今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。 父よ、み名があがめられますように」
すると天から声があった、
「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」