マルタ騎士団の起源 伝説の騎士とは?
16世紀に起こった大決戦とは?
1571年のレパント海戦です。この時、マルタ騎士団の船も参加しています。
1571年10月7日、ギリシャのコリント湾口のレパント沖での、オスマン帝国海軍と教皇領・スペイン帝国・ヴェネツィア共和国の連合海軍による海戦である。
オスマン帝国の東地中海への進出に対して、それまでスペイン王国は消極的な対応をしていました。旧グラナダ王国での隠れイスラム教徒が、生活条件の悪化により反乱を起こしました(アルプハーラスの反乱)。オスマン帝国への支援を求めたことで、スペイン王国は安全保障上看過できなりました。
そこで、スペイン王国は支配下のジェノヴァやイタリアの諸都市、マルタ騎士団等から最大限の戦力を集めます。また、教皇領の海軍にはスイス傭兵やフランスからの志願騎士も参加しました。
このレパント海戦での西ヨ―ロッパの勝利は、オスマン帝国の地中海での前進を防いだのです。また、この勝利はギリシャとアルバニアでの蜂起を誘発し、オスマン帝国のバルカン半島での支配も一時揺るがしたのです。
日本国籍で唯一のマルタ騎士って誰?
日本国籍で唯一のマルタ騎士は、九州大学都市研究センターの武田秀太郎准教授です。
2022年6月24日、武田秀太郎准教授はマルタ騎士団によりナイトに叙任されました。青年海外協力隊員、国連職員、そして大学教員として、バングラデシュ、香港、東南アジアにおいて国際支援活動を継続してきた功績が評価されたのです。
武田秀太郎准教授のコメント
「日本国籍唯一の騎士ということで、重責に身が引き締まる思いです。これからも騎士としての矜持を持って、研究と国際支援活動にまい進したいと思います」
マルタ騎士団の歴史
西暦 | 主な出来事 |
聖ヨハネ騎士団 | |
1023年頃 | エルサレムの洗礼者ヨハネ修道院の跡に、アマルフィの商人が病院を兼ねた巡礼者宿泊所を設立する。 やがて、十字軍の遠征とともにヨーロッパ各地から騎士が集まり、聖地防衛のために尽す。 |
1113年 | 教皇パスカリス2世から聖ヨハネ騎士団(病院騎士団)として正式な承認を得る。 [正式名称]エルサレム、ロードス及びマルタにおける聖ヨハネ主権軍事病院騎士修道会 (1119年に設立されたテンプル騎士団と同じように、少しずつ軍事化していく) |
1187年 | エルサレム陥落。この時はまだ、聖ヨハネ騎士団はトリポリやアッコンを死守する |
1291年 | 最後のキリスト教徒の砦アッコンが陥落し、キプロス島へ。病院を運営しつつ、イスラム船を襲撃する(海賊行為)。 |
ロードス騎士団 | |
1309年 | 東ローマ帝国(ビサンティン帝国)領であったロードス島を奪い、ここを本拠地とした。これ以降「ロードス騎士団」と呼ばれる。 |
1312年 | テンプル騎士団の資産が没収される。その資産のかなりの部分がロードス騎士団に与えられる。 イスラムと戦う唯一の修道会として、西欧から多額の寄進を受けるようななる。 |
1453年 | オスマン帝国のメフメト2世によって東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルが陥落(東ローマ帝国滅亡)。 |
1480年 | オスマン帝国のメフメト2世の襲撃を受けたが、ロードス騎士団はこれを撃退。 |
1522年 | オスマン帝国のスレイマン大帝が400隻の船団と20万人の兵で来襲。 対するロードス騎士団は雑兵まで含めて7千人は、5ヶ月に及んだ篭城戦の末に降伏。ロードス島からクレタ島やシチリア島に撤退する。 |
マルタ騎士団 | |
1522年 | スペインは15世紀末から16世紀初頭にかけて、シチリア島やイタリア南部、そしてアフリカ北岸の要塞を占領していた。その中心にあるマルタ島の防衛をロードス騎士団に任せ、地中海の西半分の安全を確保しようとする。 教皇クレメンス7世とスペイン国王・神聖ローマ皇帝カール5世の斡旋により、シチリア王からマルタ島を借り、「マルタ騎士団」となる。条件はなんと格安の「年に鷹一羽を献納すること」 |
1565年 | オスマン帝国の大船団に襲われることになるが、スペインの救援とスレイマン1世の死(1566年)によって、辛うじて防衛に成功。この時活躍した騎士団総長ジャン・ド・ラ・ヴァレットにちなんで、マルタ島の主要港がヴァレッタと命名される。 |
1571年 | レパントの海戦でも、マルタ騎士団の船が参加 |
16世紀 | 騎士団領が没収され、その力を失っていく。 |
17世紀 | ロシア海軍やフランス海軍の一部として組み込まれる。 |
1798年 | ナポレオンがエジプト遠征してくると、マルタ騎士団はマルタ島を戦わずして明け渡す。その後、正教国家ロシア帝国を頼る。 |
1800年 | イギリスがフランスからマルタ島を奪うが、マルタ騎士団へ返さず。国家としてだけ認める。 |
1801年 | ロシア皇帝パーヴェル1世を騎士団総長に選ぶ。 |
1834年 | 本部はローマに移転。その後、マルタ騎士団は領土なき国家として、軍事的任務から離れ、国際慈善活動に注力するようになる。 |
まとめ
聖ヨハネ騎士団として始まり、彼らの本拠地の島の名前からロードス騎士団を経て、マルタ騎士団となりました。
騎士団といっても、純粋な騎士ではなく、元来は修道院の医療スタッフです。また、マルタ騎士団は海賊行為もしていました。
そんなマルタ騎士団の中には、伝説の騎士と言われる人物がいました。総長ジャン・ド・ラ・ヴァレットです。
また、マルタ騎士団は、16世紀に起こった歴史的なレパント海戦(西ヨーロッパvsオスマン帝国)にも出陣しています。
現在のマルタ騎士団は「領土なき国家」として、世界の90数ヵ国から認められています。
しかし、日本をはじめアメリカやイギリス、フランス、ドイツ、中国など、世界の主要国と言えるような国々は、ロシアを除いて外交関係を結んでいません。