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マルタ騎士団と国旗〈マルタ騎士団と国旗〉

マルタ騎士団の最初の正式名称は「エルサレム、ロードス及びマルタにおける聖ヨハネ主権軍事病院騎士修道会」で通称聖ヨハネ騎士団。
テンプル騎士団、ドイツ騎士団とともに、中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つです(騎士団ではなく修道会なのです)。

聖ヨハネ騎士団の名前は、その後ロードス騎士団、マルタ騎士団へと変わります。騎士団の本拠地がロードス島、マルタ島に移ったからです。

その後、1798年ナポレオンのエジプト遠征の際に、マルタ島を奪われました。そして、1934年に本部がローマに移り、以後は軍事から国際慈善活動に注力するようになりました。

そんなマルタ騎士団の歴史を振り返ってみたいと思います。1571年のレパントの大海戦、伝説の騎士=総長ジャン・ド・ラ・ヴァレットにもふれます。

マルタ騎士団の起源 伝説の騎士とは?

ジャン・ド・ラ・ヴァレット
〈ジャン・ド・ラ・ヴァレット

伝説の騎士とは、騎士団総長ジャン・ド・ラ・ヴァレットです。フランス・ケルシのヴァレット家出身。ヴァレット家からは、十字軍に参加した者が多く、彼も騎士に対するなんらかの思い入れがあったのでしょう。

1523年のロードス島攻防時に、ヴァレットは当時の総長フィリップ・ヴィリエ・ド・リラダンに同行していました。マルタ大包囲戦のあった1565年には、彼は70歳前後でした。

1566年より、ヴァレットは新都市バレッタの建設を命じ、最初の石を自らの手で運んだと伝えられています。完成前に亡くなり、バレッタ城塞内側の聖ヨハネ准司教座聖堂の納骨堂に葬られました。

16世紀に起こった大決戦とは?

1571年のレパントの海戦1571年のレパント海戦です。この時、マルタ騎士団の船も参加しています。

1571年10月7日、ギリシャのコリント湾口のレパント沖での、オスマン帝国海軍と教皇領・スペイン帝国・ヴェネツィア共和国の連合海軍による海戦である。

オスマン帝国の東地中海への進出に対して、それまでスペイン王国は消極的な対応をしていました。旧グラナダ王国での隠れイスラム教徒が、生活条件の悪化により反乱を起こしました(アルプハーラスの反乱)。オスマン帝国への支援を求めたことで、スペイン王国は安全保障上看過できなりました。

そこで、スペイン王国は支配下のジェノヴァやイタリアの諸都市、マルタ騎士団等から最大限の戦力を集めます。また、教皇領の海軍にはスイス傭兵やフランスからの志願騎士も参加しました。

このレパント海戦での西ヨ―ロッパの勝利は、オスマン帝国の地中海での前進を防いだのです。また、この勝利はギリシャとアルバニアでの蜂起を誘発し、オスマン帝国のバルカン半島での支配も一時揺るがしたのです。

日本国籍で唯一のマルタ騎士って誰?

日本国籍で唯一のマルタ騎士は、九州大学都市研究センターの武田秀太郎准教授です。

2022年6月24日、武田秀太郎准教授はマルタ騎士団によりナイトに叙任されました。青年海外協力隊員、国連職員、そして大学教員として、バングラデシュ、香港、東南アジアにおいて国際支援活動を継続してきた功績が評価されたのです。

武田秀太郎准教授のコメント
「日本国籍唯一の騎士ということで、重責に身が引き締まる思いです。これからも騎士としての矜持を持って、研究と国際支援活動にまい進したいと思います」

マルタのバレッタにあるパブリックガーデン〈マルタのバレッタにあるパブリックガーデン〉

マルタ騎士団の歴史

西暦 主な出来事
聖ヨハネ騎士団
1023年頃 エルサレムの洗礼者ヨハネ修道院の跡に、アマルフィの商人が病院を兼ねた巡礼者宿泊所を設立する。
やがて、十字軍の遠征とともにヨーロッパ各地から騎士が集まり、聖地防衛のために尽す。
1113年 教皇パスカリス2世から聖ヨハネ騎士団(病院騎士団)として正式な承認を得る。
[正式名称]エルサレム、ロードス及びマルタにおける聖ヨハネ主権軍事病院騎士修道会
(1119年に設立されたテンプル騎士団と同じように、少しずつ軍事化していく)
1187年 エルサレム陥落。この時はまだ、聖ヨハネ騎士団はトリポリやアッコンを死守する
1291年 最後のキリスト教徒の砦アッコンが陥落し、キプロス島へ。病院を運営しつつ、イスラム船を襲撃する(海賊行為)。
ロードス騎士団
1309年 東ローマ帝国(ビサンティン帝国)領であったロードス島を奪い、ここを本拠地とした。これ以降「ロードス騎士団」と呼ばれる。
1312年 テンプル騎士団の資産が没収される。その資産のかなりの部分がロードス騎士団に与えられる。
イスラムと戦う唯一の修道会として、西欧から多額の寄進を受けるようななる。
1453年 オスマン帝国のメフメト2世によって東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルが陥落(東ローマ帝国滅亡)。
1480年 オスマン帝国のメフメト2世の襲撃を受けたが、ロードス騎士団はこれを撃退。
1522年 オスマン帝国のスレイマン大帝が400隻の船団と20万人の兵で来襲。
対するロードス騎士団は雑兵まで含めて7千人は、5ヶ月に及んだ篭城戦の末に降伏。ロードス島からクレタ島やシチリア島に撤退する。
マルタ騎士団
1522年 スペインは15世紀末から16世紀初頭にかけて、シチリア島やイタリア南部、そしてアフリカ北岸の要塞を占領していた。その中心にあるマルタ島の防衛をロードス騎士団に任せ、地中海の西半分の安全を確保しようとする。
教皇クレメンス7世とスペイン国王・神聖ローマ皇帝カール5世の斡旋により、シチリア王からマルタ島を借り、「マルタ騎士団」となる。条件はなんと格安の「年に鷹一羽を献納すること」
1565年 オスマン帝国の大船団に襲われることになるが、スペインの救援とスレイマン1世の死(1566年)によって、辛うじて防衛に成功。この時活躍した騎士団総長ジャン・ド・ラ・ヴァレットにちなんで、マルタ島の主要港がヴァレッタと命名される。
1571年 レパントの海戦でも、マルタ騎士団の船が参加
16世紀 騎士団領が没収され、その力を失っていく。
17世紀 ロシア海軍やフランス海軍の一部として組み込まれる。
1798年 ナポレオンがエジプト遠征してくると、マルタ騎士団はマルタ島を戦わずして明け渡す。その後、正教国家ロシア帝国を頼る。
1800年 イギリスがフランスからマルタ島を奪うが、マルタ騎士団へ返さず。国家としてだけ認める。
1801年 ロシア皇帝パーヴェル1世を騎士団総長に選ぶ。
1834年 本部はローマに移転。その後、マルタ騎士団は領土なき国家として、軍事的任務から離れ、国際慈善活動に注力するようになる。

まとめ

聖ヨハネ騎士団として始まり、彼らの本拠地の島の名前からロードス騎士団を経て、マルタ騎士団となりました。

騎士団といっても、純粋な騎士ではなく、元来は修道院の医療スタッフです。また、マルタ騎士団は海賊行為もしていました。

そんなマルタ騎士団の中には、伝説の騎士と言われる人物がいました。総長ジャン・ド・ラ・ヴァレットです。

また、マルタ騎士団は、16世紀に起こった歴史的なレパント海戦(西ヨーロッパvsオスマン帝国)にも出陣しています。

現在のマルタ騎士団は「領土なき国家」として、世界の90数ヵ国から認められています。

しかし、日本をはじめアメリカやイギリス、フランス、ドイツ、中国など、世界の主要国と言えるような国々は、ロシアを除いて外交関係を結んでいません。