※本ページにはプロモーションが含まれています。

聖アンブロジウス〈聖アンブロジウス〉

聖アンブロジウスは四大ラテン教父の一人

聖アウグスティヌス「Tolle, lege(とって読め)」

聖グレゴリウス1世とグレゴリオ聖歌

聖ヒエロニムスとライオン

聖アンブロジウス
4世紀のミラノの司教、ミラノの守護聖人。若き日のアウグスティヌスに影響を与えたことでも有名です。[記念日は12月7日]

アンブロジウスと蜂の奇跡

4世紀半ば、ローマ帝国の高級官僚の息子として、父の任地ガリアのアウグスタ・トレヴェロールム(現在はドイツのトリーア)で生まれました。

「アンブロシウスがまだ幼児の頃、彼が口を開けて眠っていると数匹の蜂が彼の舌の上に止まり、彼を刺す代わりにはちみつを垂らした」と、彼の秘書だったパウリヌスが記録。このことにより、彼は話し上手になったといいます。

ミラノ司教へと民衆の声

アンブロジウスは、ローマで法学を学んで官僚の道を歩んでいました。368年にシルミウム長官、370年にはミラノ首席執政官に選出されます。当時のミラノは、帝国西方の中心都市であった。

374年、ミラノ司教アウクセンティウス死去に伴う後継人事問題は、アリウス派と反アリウス派の民衆が入り乱れてもめにもめた。人望のあったアンブロジウスが調停に乗り出すと、派閥間の争いにうんざりしていた民衆はアンブロジウスこそミラノ司教にふさわしいと言いはじめました。

四大ラテン教父(左から)聖アウグスティヌス、聖アンブロジウス、聖ヒエロニムス、聖グレゴリウス1世

走れベッタ、走れベッタ!

アンブロシウスは売春婦を2人家に泊めるなどして、司教就任を回避しようとしました。さらにミラノから逃亡を試みます。彼はベッタという名前の雌ロバに乗って逃げていて、「走れベッタ、走れベッタ (corri Betta, corri Betta)」と大声を出しながら逃げていました。

そのため、彼が捕まった地域は、今日でも「コルベッタ」と呼ばれています。しかし、ミラノのサン・シーロ地区を出ると、すぐに民衆につかまりました。あまりに熱心な民衆の司教就任要請に、アンブロジウスはまだキリスト教徒ですらなかったにもかかわらず、これを受け入れました。

ミラノ司教アンブロジウス

司祭についてキリスト教のカテキズム(問答形式で書かれた入門教育)を学ぶと、洗礼を受け、すぐに司教に叙階された。374年12月7日のことであり、アンブロジウスの記念日はこの日付に由来しています。

司教となったアンブロジウスは、教会政治家として優れた手腕を発揮し、アリウス派を駆逐して正統信仰の擁護に尽力。さらに、390年にテッサロニキで皇帝テオドシウス1世が民衆を虐殺する事件(テッサロニカの虐殺)が起こると、皇帝の破門を宣言して公開謝罪を要求し、これを成し遂げました。

ギリシャ語に精通していたアンブロジウスは、バシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリオスなど東方の教父たちの思想を学び、これを西方に伝え、西方教会の神学の水準を高めました。また、オリゲネスやアレクサンドリアのフィロンに学んでその聖書解釈の方法を西方教会のスタンダードとしました。

若きアウグスティヌスへの影響

若き日のアウグスティヌスもミラノでアンブロジウスに出会って大きな影響を受け、回心しました。アウグスティヌスによれば、アンブロジウスは《古代》の人間で最初に声を出さない読書を行った人物です。

ミラノで伝統的に歌われるアンブロジウス聖歌というラテン語聖歌はアンブロジウスに由来するという伝説があり、同じようにミラノで行われている典礼様式はアンブロジウス典礼(ミラノ典礼)と呼ばれています。

アンブロジウスに帰される聖歌には「テ・デウム」(我ら神なる汝を讃えん)、「いざ来ませ、異邦人の救い主よ」(ヴェニ・レデンプトール・ジェンティウム)などがあります。

ミラノのサンタンブロージョ教会バジリカ〈ミラノのサンタンブロージョ教会バジリカ〉