ロレンツェッティ〈ユダの自殺〉
イスカリオテのユダとは誰か?
彼は、イエスの十二使徒の一人として選ばれながら、師を祭司長たちに引き渡した人物として福音書に記されています。
弟子団の会計を任され、宣教に同行し、最後の晩餐に同席したのち、ゲツセマネで合図を送り、イエス逮捕の直接的な引き金となりました。
本記事では、正典福音書と初期伝承に基づき、イスカリオテのユダの生涯を、選出から裏切り、そして死に至るまで時系列で整理します。
同名の使徒ユダ(ヤコブの子ユダ)とは別人であり、ここでは「イスカリオテのユダ」として区別します。
Contents
十二使徒に選ばれたイスカリオテのユダ
イスカリオテのユダは、イエスによって選ばれた十二使徒の一人として登場します(『マルコによる福音書』3章19節)。
十二使徒の名を列挙する箇所では、常にその一人として記されており、初めから特別な例外的存在として扱われているわけではありません。
「イスカリオテ」という呼称については、南ユダヤの町ケリヨト出身を示す地名由来と理解されることが一般的で、他の使徒たちが主にガリラヤ地方の出身者であった点と対比されることがあります。
福音書は、彼が弟子団の金銭を管理する立場、いわゆる会計係であったと記しています(『ヨハネによる福音書』12章6節)。
旅を続ける弟子団にとって金銭管理は重要な役割であり、これは一定の信頼を置かれていたことを示す記述といえます。少なくとも初期の段階において、ユダが他の弟子たちから明確に警戒されたり、問題視されたりしていた様子は描かれていません。
この時点のユダは、他の弟子たちと同様にイエスの宣教活動に同行し、各地で語られた教えを聞き、多くの奇跡を目撃していた人物として描かれています。しかし『ヨハネによる福音書』では、イエスが弟子たちに向かって、
「あなたがた十二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である」(6章70節)
と語った言葉が伝えられており、これはイスカリオテのシモンの子ユダを指して言われたものであると注記されています。福音書は、彼が十二弟子の一人でありながら、後にイエスを裏切る者であったことを、事後的に位置づける形で記しています。
銀貨三十枚で交わされた密約
ジョット〈裏切りと報酬〉
転機として描かれるのが、ユダが祭司長たちのもとを訪れる場面です。福音書の記述によれば、この行動は他の弟子たちに知られることなく、ユダ自身の判断によって進められた出来事として描かれています。『マタイによる福音書』は、ユダが自ら進み出て、
「あの人をあなたがたに引き渡せば、いくらくれますか」(26章15節)
と語ったと記しています。この問いかけは、取引としての性格を明確に示す表現であり、ユダがイエスの身柄引き渡しを具体的な報酬と結びつけて提案したことを示しています。祭司長たちはこの申し出を受け入れ、報酬として銀貨三十枚を支払いました。
この金額は、旧約聖書において定められた「奴隷の評価額」(『出エジプト記』21章32節)と一致しており、当時の律法世界では人の命を最も低く見積もる額として知られていました。
福音書記者はこの点を踏まえ、イエスが王や指導者としてではなく、最も低い価値で引き渡された存在として描いています。
こうしてこの出来事は、ユダ個人の思惑だけによる事件ではなく、旧約聖書の規定を背景に、イエスが受難へ向かう最初の段階として位置づけられています。
その動機について、福音書は金銭への関心や執着を示唆する表現を用いながらも、ユダの内面や葛藤を詳細に説明することはありません。
後代には多様な解釈や思想的評価が生まれましたが、正典本文そのものは、取引が成立したという事実と、その結果として裏切りが具体化した経過のみを簡潔に伝えています。
最後の晩餐で告げられた裏切り
最後の晩餐の席において、イエスは弟子たちと食卓を共にしながら、突然、重い沈黙を破るかのように弟子たちに向かって語りかけます。
福音書は、その場が和やかな別れの食事ではなく、差し迫った出来事を前にした緊張の時間であったことを示しています。
「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ろうとしている」(『マタイによる福音書』26章21節)
という言葉は、弟子団全体に衝撃を与えました。弟子たちは互いに顔を見合わせ、自分が疑われているのではないかという不安を抱き、それぞれがイエスに問いかけ始めたと記されています。
そのような動揺の中で、ユダもまた他の弟子たちと同じように、
「先生、まさかわたしではないでしょう」(同26章25節)
と問いかけます。これに対してイエスは、周囲には明確な断定として聞こえない形で、しかし当人には理解できる応答として、「それはあなたの言ったことだ」と応じたと記されています。
このやり取りは、公の場で糾弾するのではなく、事実を静かに示す形で語られている点に特徴があります。
『ヨハネによる福音書』では、さらに象徴的な描写が加えられています。イエスからパン切れを受け取った後、「そのとき、サタンが彼の中に入った」(13章27節)と記され、出来事が決定的な段階に入ったことが示されます。
その直後、ユダは席を立ち、夜の闇へと出て行きます。この「夜」という表現は、時間帯の描写であると同時に、福音書全体の文脈の中で象徴的意味を帯びた表現として用いられています。
ゲツセマネでの接吻の合図
ジョット〈ユダの接吻〉
イエス逮捕の場面は、エルサレム郊外にあるゲツセマネの園で描かれます。夜の闇の中、剣や棒を持った人々を伴い、案内役として先頭に立ったのがイスカリオテのユダでした。彼は事前に合図を定め、その人物を確実に識別できる方法として、
「わたしが接吻する者が、その人だ。捕らえよ」(『マタイによる福音書』26章48節)
と指示したと記されています。この合図は、暗闇の中でも誤認を避けるための実務的な手段として語られており、計画的な引き渡しであったことを示しています。
ユダはその合図どおりイエスに近づき、師に対して接吻をしました。この行為は、通常であれば敬意や親愛を示すしぐさであり、弟子と師の関係を象徴するものでした。福音書は、その行為がこの場面でどのように用いられたかを淡々と記しています。
イエスは彼に対して、非難や抵抗の言葉ではなく、
「友よ、しようとしていることをするがよい」(同26章50節)
と語ったと記されています。この言葉は、状況を受け止めた上での応答として記されており、出来事がすでに避けられない段階に入っていたことを示しています。
この接吻の場面は、後世において「裏切り」を象徴する行為として広く記憶されるようになり、イスカリオテのユダを語る際の決定的な情景として伝えられていくことになります。
『マタイによる福音書』では、このときイエスがユダに対して、「友よ、なんのためにきたのか」と語った言葉も記されており、出来事がすでに不可逆的な段階に入っていたことが示されています。
銀貨を投げ捨てたその夜の後悔と死
ニコライ・ゲー〈ユダの良心〉
イエスが総督ピラトのもとで死刑判決を受けた後、事の重大さを前にして、イスカリオテのユダは深い後悔の念を抱いたと記されています。彼は、かつて取引の報酬として受け取った銀貨三十枚を携え、祭司長や長老たちのもとに戻り、それを返そうとしました。
その際、ユダは自らの行為を明確な言葉で認め、
「わたしは罪を犯しました。罪のない血を売り渡したのです」(『マタイによる福音書』27章4節)
と語ったと伝えられています。この発言は、出来事が取り返しのつかない段階に至った後であったこと、そしてユダ自身が自らの行為を罪として認識していたことを示しています。
しかし、祭司長たちはその訴えを取り合わず、責任を拒む態度を示したと記されています。
行き場を失ったユダは、銀貨三十枚を神殿の中に投げ込み、その場を立ち去りました。その後、彼は首をつって死んだと『マタイによる福音書』は伝えています(27章5節)。この記述は、彼の最期が悔恨と孤立の中で迎えられたものであったことを簡潔に示しています。
一方、『使徒言行録』1章18節では、ユダの死について別の形で語られており、彼が不義の報酬によって地所を得、その最期が惨たらしい出来事として人々に知られるようになったことが記されています。この地所は「アケルダマ(血の地所)」と呼ばれるようになったと伝えられています。
記述の細部には差異が見られるものの、いずれの伝承においても、ユダが使徒団から離脱し、その務めを失った存在として理解されていたことが示されており、初期共同体が彼の最期をどのように受け止めていたかを伝えています。
まとめ|イスカリオテのユダとは誰か?
イスカリオテのユダは、イエスによって選ばれた十二使徒の一人であり、弟子団の中で金銭管理を担う立場にありました。
しかし、銀貨三十枚の契約を結び、最後の晩餐で裏切りが示され、ゲツセマネでの接吻によってイエス逮捕を導きます。その後、彼は自らの行為を悔い、死に至ったと福音書と初期伝承は伝えています。
これらの記述は、イスカリオテのユダを通して、イエスの受難が歴史の中でどのように進行したかを示すものであり、彼が聖書物語において決定的な転換点を担った人物であったことを明確にしています。
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