
イエスの十字架の下に、最後まで立ち続けていた弟子がいました。その名はヨハネです。福音書は、彼を固有名で呼ばず、「イエスに愛された弟子」とだけ記しています。洗礼者ヨハネとは別人であり、イエスの最初期から活動に加わった十二使徒の一人です。
ヨハネは、処刑の場に立ち会い、復活後の出来事を見届け、やがて『ヨハネによる福音書』と『ヨハネの黙示録』にそれらを書き記しました。しかし彼は、自分自身を語ることなく、出来事そのものを証言する立場を貫いています。
本記事では、福音書と黙示録の記述、ならびに古代教会の伝承に基づき、聖ヨハネの生涯を事実関係に即して年代順に整理します。
Contents
漁師から使徒へ召されたヨハネ
ヨハネは、ガリラヤ湖畔で漁を生業とする家庭に生まれました。父はゼベダイ、母はサロメとされ、兄は大ヤコブです。
家族は舟と網を所有する漁業者であり、当時のガリラヤ地方においては自営の労働者階層に属していたと考えられています。兄弟は父のもとで漁に従事し、日常的に湖での作業に携わっていました。
マタイによる福音書は、ヨハネと兄ヤコブが父とともに舟の中で網を繕っていた場面を記録し、そこにイエスが近づいたことを伝えています。この描写は、彼らが通常の労働の最中に召し出されたことを示しています。
「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。」
この記述によれば、ヨハネは兄ヤコブとともに、舟と父をその場に残してイエスに従いました。
その後、二人はガリラヤ地方を中心とする宣教活動に加わり、イエスの行動に同行したと記されています。共観福音書では、ヨハネがペトロ、ヤコブと並び、変貌山の出来事など、特定の場面に立ち会う弟子の一人として描写されています。
十字架の下に立ちマリアを託された弟子
イエスの処刑時、多くの弟子たちは捕縛や迫害への恐れから姿を消しましたが、ヨハネは最後まで現場を離れず、十字架のそばに留まっていました。この場面は、弟子たちの中でヨハネが処刑の瞬間に立ち会っていた人物であることを示しています。
『ヨハネによる福音書』第19章には、処刑の場の状況が次のように記されています。
「イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた。」*
この記述は、処刑の場に立ち会っていた人物を具体的に列挙しており、その中に男性の弟子として暗示的に位置づけられているのが「愛弟子」です。その場でイエスは、母マリアと「愛弟子」に向かって言葉を残します。
「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」
「ごらんなさい。これはあなたの母です」
このやり取りは、処刑の直前に行われたものとして記録されており、母マリアの今後を「愛弟子」に託す行為であったことが読み取れます。
この場面で弟子の名は明示されていませんが、古代教会以来、この「愛弟子」はヨハネであると理解されてきました。以後、ヨハネはマリアを自らのもとに引き取り、生活を共にしたと記されています。
名を記さずイエスを証言した弟子
『ヨハネによる福音書』では、著者自身が名を明かさず、常に第三者的な表現を用いています。
自分自身を「イエスの愛しておられた弟子」と呼び、個人名を避けています。この表現は、物語の中で一貫して用いられ、著者が自己を前面に出さず、出来事そのものを伝える姿勢を示しています。
第21章では、その人物が最後の晩餐に同席し、イエスの近くにいた弟子であることが具体的に説明されます。この場面では、弟子たちの中で特にイエスに近い位置にいた人物として描写されています。
「この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、『主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか』と尋ねた人である。」
この描写により、その弟子が重要な出来事の現場に立ち会っていたことが示されます。同章の末尾では、福音書全体がこの弟子の証言に基づくことが、改めて明確に述べられています。
「これらの事についてあかしをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。」
この記述によって、ヨハネが出来事の直接の目撃者であり、見聞した内容を記録した人物であることが示されています。
死なない弟子と誤解された理由
復活後の場面で、ヨハネに関して「死なない弟子」という噂が生じました。
この噂は、復活したイエスとペトロとの対話の一節が、当時の信徒共同体の中で文脈から切り離され、独立して伝えられたことに由来します。初期教会では、使徒たちの言動や主の言葉が口頭でも共有されていたため、一部の発言が簡略化されて理解されることがありました。
『ヨハネによる福音書』第21章では、復活の主イエスとペトロが湖畔で語り合う場面が描かれています。そのやり取りの中で、ペトロは自分に続いて来る弟子、すなわちヨハネを指して、その将来について問いを投げかけます。この問いに対して、イエスはペトロ個人に向けた言葉として、次のように語ります。
「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。」
この発言は、ヨハネの寿命や運命を具体的に示すものではなく、ペトロ自身の使命と従い方に注意を向けさせる文脈の中で語られたものです。
しかし、この言葉の一部のみが伝えられた結果、「ヨハネは死なない」という理解が兄弟たちの間に広まったと福音書は記しています。続く記述では、この理解が正確ではないことが明確にされ、イエスがヨハネの不死を約束したのではないことが、はっきりと記録されています。
迫害の中で『ヨハネの黙示録』を書いた使徒
古代の伝承によれば、ヨハネはローマ皇帝ドミティアヌス(在位81〜96年)の時代にキリスト教徒への迫害を受け、エーゲ海に位置するパトモス島に流されたとされています。
ドミティアヌス治世下では、皇帝崇拝を拒む人々が処罰の対象となり、キリスト信者もその中に含まれていました。パトモス島は小アジア沿岸から離れた小島で、当時は政治犯や宗教犯を隔離する流刑地として用いられていました。
『ヨハネの黙示録』第1章では、その成立事情が次のように記されています。
「ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。」
この記述は、著者が自らを幻や啓示を受けた目撃者として位置づけ、その内容を書き記したことを示しています。『ヨハネの黙示録』全体は、アジア州にある諸教会に宛てられた文書として構成されており、迫害の状況下に置かれた信徒たちに向けて書き送られたものと理解されています。
その後、皇帝の代替わりなどによって迫害が緩和されると、ヨハネは釈放され、小アジアの主要都市エフェソに戻ったと伝えられています。
エフェソでは教会と継続的な関わりを持ち、信徒たちと生活を共にしながら晩年を過ごしたとされています。古代教会の理解では、ヨハネは使徒の中で唯一、処刑による殉教を受けず、自然な死を迎え、高齢まで生きた人物とされてきました。
まとめ|「福音記者」聖ヨハネとは誰か?
聖ヨハネは、ガリラヤの漁師として生きていた時にイエスに召され、十二使徒の一人として宣教活動に加わりました。ガリラヤ地方を巡る宣教の中でイエスに同行し、その言動を間近で見聞した弟子の一人として記録されています。
十字架刑の場では、多くの弟子が姿を消す中でイエスのそばに立ち、母マリアを託された弟子として福音書に記されています。
復活後の出来事についても、復活の主と弟子たちとのやり取りに立ち会った目撃者として証言し、その内容はヨハネによる福音書の記述として残されました。
さらに、迫害の時代にはパトモス島に流され、そこで『ヨハネの黙示録』を書き記したと伝えられています。
その後は小アジアのエフェソに戻り、当地の教会と関わりながら晩年を過ごしたとされています。生涯を通して自らの名を前面に出すことなく、見聞した出来事を記録する立場を保ち続けた点に、福音記者ヨハネの生涯とその役割が集約されています。
コジモ〈セント・ジョン(ヨハネ)伝道者〉

