
3世紀のローマ教会は、迫害や神学論争が絶えず、決して“平和な時代”ではありませんでした。
その中心にいたのが、ローマ司教(教皇)聖ポンチアノと、彼に反対して一時は「対立教皇」となった聖ヒッポリトです。
二人は教えや運営方針の違いから長く対立しましたが、思いがけない場所――サルデーニャ島の過酷な鉱山で、互いを赦し、心からの和解を果たします。
これは初期教会史の中でも、もっとも美しい“赦しの物語”といわれています。
Contents
当時のローマ教会の状況:オリゲネス論争

ローマ教会の内部は、神学者オリゲネスの教えをめぐって議論が続いていました。
オリゲネスは聖書を霊的に読む方法を発展させた偉大な学者ですが、「霊魂の先在」などいくつかの考えが問題視され、教会内に賛否が生まれていました。
- 慎重に批判して教会の一致を守ろうとした人々(教皇側)
- オリゲネスの学問的価値を高く評価し、積極的に支持した人々(ヒッポリト側)
こうして、ローマ教会は次第に“二つの流れ”に分かれていきます。
ポンチアノとはどんな人物か
聖ポンチアノ(在位230〜235年)は、落ち着いた判断力をもつ教皇でした。
彼は、対立が深まるローマ教会をなんとかまとめようと努力し、慎重さと穏やかさを大切にしていました。教会の一致を重んじる姿勢は、生涯を通して変わりません。
しかし、この「一致を守ろうとする姿勢」こそが、強い信念を持つヒッポリトとの対立を深める原因になっていきます。
ヒッポリトとはどんな人物か
聖ヒッポリトは、当時のローマで最も優れた神学者の一人でした。
学識に優れ、教えに厳格で、聖書解釈にも力を入れていた人物です。
しかし、彼は教皇カリストゥス1世、その後のウルバヌス1世、そしてポンチアノに対して、
「教会が罪への対応に甘すぎる」
「教義に妥協している」
と強く批判し、ついには自分を支持するグループに担がれ、**対立教皇(アンチ・ポープ)**になってしまいます。
高潔で熱心な人物でしたが、その厳しさが分裂を生む結果になったのです。
なぜ対立は起きたのか(3つの原因)
1. オリゲネス神学の評価と解釈の違い
最大の論点は、当時議論を巻き起こしていた神学者オリゲネスの教えをどう扱うか、という点でした。
- ヒッポリトの立場:オリゲネスの学問的洞察を高く評価し、特に「聖書を霊的に読む方法」などを支持。
- ポンチアノの立場:オリゲネスの一部の教え(霊魂の先在など)が誤解を招きやすいと判断し、慎重に対応する必要があると考えた。
両者は「オリゲネスのどこを受け入れ、どこを制限すべきか」という点で意見が分かれ、神学的な距離が大きく開いていきました。
2. “罪と赦し” をどう扱うべきか(教会の規律の違い)
2つめの論点は、罪を犯したキリスト者をどのように扱うべきか という、教会規律の根本的な問題でした。
- ヒッポリト(厳格派):
「重大な罪を犯した人を簡単に赦すべきではない」「教会の“聖さ”を守るため、処分はより厳しくあるべき」と考えていた。 - ポンチアノ(教皇側):
「悔い改める者を受け入れる道こそ、教会の使命」「迫害下では特に、弱さを抱える信徒を閉め出すべきではない」と、“赦しと回復” を重視した。
この違いは、今日でいう「厳格な教会規律を求めるタイプ」 と「赦しと包容力を重んじるタイプ」の衝突であり、両者の考え方の深部が真正面からぶつかった形でした。
3. 教会運営をめぐる姿勢の違い(現実重視 vs. 理念重視)
ヒッポリトとポンチアノの対立は、単なる神学論争ではなく、教会をどう導くか という根本姿勢の違いにも及んでいました。
- ヒッポリト:
「教会は妥協してはならない。正しい教義と厳格な生活こそが教会を守る。」と考え、理想の教会像を強く追求した。 - ポンチアノ:
「迫害が続くこの時代は、信徒を守り、一致を保つことが第一。」「現実に合わせ、柔軟に対処すべきだ。」と考え、牧会的な判断・調整を重視した。
つまり、
“理念を優先させたい神学者” ヒッポリト と“人々を守りたい牧者” ポンチアノという違いが、次第に大きな溝となっていきました。
総括:
この3つの論点が積み重なり、ついにヒッポリトは「対立教皇」としてポンチアノに反する立場に立ちます。
しかし、その根底には どちらも教会を愛していた という事実があり、その愛が最終的にサルデーニャでの“奇跡的な和解”につながっていきます。
“対立教皇”とは何か
“対立教皇(アンチ・ポープ)”とは、正統な教皇とは別に、教皇であると主張する人物が存在する状態のことです。
3世紀のローマでは、ヒッポリトがこの地位に立ち、正統教皇と二重構造が生まれてしまいました。
これは教会にとって深い痛みでした。
ポンチアノもヒッポリトも、教会を愛していたはずなのに、誤解と緊張の中で分裂が長く続いたのです。
マクシミヌス迫害で2人が同時に捕らえられる

235年、皇帝マクシミヌス1世がキリスト教迫害を開始。
教皇ポンチアノは捕らえられ、なんとその際にヒッポリトも同じく逮捕されるという、誰も予期しなかった事態が起こりました。
二人はローマから遠く離れた サルデーニャ島の鉱山へ流されます。そこは重労働と飢えが待ち受ける、“生きて帰れない場所”として知られていました。
サルデーニャでの和解

極限状態の鉱山で、二人は出会います。粗末な衣、疲れ果てた体、焼けつく太陽――その中で、長く続いた対立が静かに溶け始めていきました。
- 互いの誤解や批判
- 聖書理解の違い
- 教会への思いの温度差
そうした隔たりよりも、「同じ主への信仰」が、むしろ二人を深く結びつけました。
やがて彼らは心からの和解を果たし、それまで二つに割れていたローマ教会の分裂は、ここで終わりを迎えます。
共に殉教・帰還
同じ日に、同じ場所で、同じ信仰のために。
和解を果たした二人ですが、鉱山での生活は体をむしばみ、やがて命を落とします。
後に教皇ファビアーヌスによって二人の遺体はローマに戻され、丁重に葬られました。そこには、教会の一致を取り戻した二人への深い敬意が込められています。
教会が2人をどのように評価したか?

興味深いことに、ヒッポリトは「対立教皇」であったにもかかわらず、その信仰と最終的な和解が評価され、ポンチアノと共に“聖人”とされました。
教会は、彼の厳しさも、対立も、最終的な赦しも、すべてを含む形で彼を受け入れたのです。
ポンチアノは「一致を取り戻した教皇」、ヒッポリトは「赦しによって回帰した神学者」として、二人は並んで記念されています。
まとめ:“赦し”と“一致”の歴史的意義
聖ポンチアノと聖ヒッポリトの物語は、「赦しは勝ち負けではなく、互いを神の前に差し出す行為である」ということを深く教えてくれます。
長い対立の後、過酷なサルデーニャで二人が交わした和解は、単なる個人同士の和解ではなく、傷ついた教会を癒やす一歩でした。
私たちの日常でも、誤解や意見の違いから距離が生まれることがあります。しかし、どんなに遅くても、状況がどれほど厳しくても、「赦す」 ことで新しい道が開ける――この二人の生涯は、そのことを静かに、しかし力強く証ししています。
![今日の聖人は聖ポンチアノ教皇|サルデーニャでヒッポリトと和解を果たした殉教者[11月19日]](https://art-bible.net/wp/wp-content/uploads/2025/11/november-19-2-300x200.jpg)
