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ピエロ・デッラ・フランチェスカ「キリストの復活」
ピエロ・デッラ・フランチェスカ〈キリストの復活〉
主人公ロドリゴが最初に思い浮かべるイエス・キリストの絵画

初めて原作を読んだあの日から28年
ずっとこの作品のことを考えてきました。

マーティン・スコセッシ
人間がこんなに哀しいのに、主よ 海があまりに碧いのです。
遠藤周作「沈黙の碑」
映画『沈黙 - サイレンス』の評判がいいようなので、観たいような、観たくないような宙ぶらりんの気持ちである。
なぜか!
原作の衝撃、主人公セバスチャン・ロドリゴの苦悩が、読後ずっと残っているからだ。彼はいつも内省している。そして、ことあるごとに、あの人「キリスト」の顔を思い浮かべる。そして、キリストと自分を重ねあわせる。こんな彼は、映像として見なくても......。
また、ポルトガルからマカオ、そして日本への航海が困難であった。日本に着いてからも、山中のあばらや屋の生活、ボロをまとい、粗末な食事。見つかるかもしれない、恐怖。あのベトナム戦争映画『プラトーン』のある記事を思い出した、戦争自体の恐怖ではなく、それより虫が這いつくばるジャングルの中の恐怖!
そう、善悪を判断する思考の苦悩より、肉体はその〈極限状況〉に恐怖してしまう。暖房・冷房の部屋で生きている私には、そんな苦難に耐えられる自信はない。


遠藤周作『沈黙』、昨年と今年2度読んだ
小説は、セバスチャン・ロドリゴの書簡から始まる。
1637年12月島原の乱勃発、1638年4月終結。
イエズス会の高名な神学者であるクリストヴァン・フェレイラ神父が、日本での苛酷な弾圧に屈して、棄教したという報せがローマにもたらされる。
クリストヴァン・フェレイラ神父の棄教の真実を知るために、その教え子たちセバスチャン・ロドリゴ、フランシス・ガルベ、ホアンテ・サンタ・マルタは、母国ポルトガルを出航して日本に向かう。マルタは病気でマカオに残り、ガルベは信者を助けるため、海に消える。
一人残されたセバスチャン・ロドリゴの言葉から
「我々、司祭は、ただ人間のために奉仕するだけのためにこの世に生まれてきたあわれな種族ですが、その奉仕が叶えられぬ司祭ほど孤独でみじめなものはありますまい」
「私は人々に奉仕するために生まれてきた司祭でした。その奉仕を肉体の臆病ゆえに怠るのは恥でした」
「キリスト教徒が味わえる神の子との連帯の悦びである」
「憐憫は行為ではなかった。愛でもなかった」
そして、最大の恐怖「もし神が存在しなければ......」
ユダを思わせるキチジローに裏切られ、囚われる。
教父フェレイラにうながされ、
「お前が転ぶと言えば、あの人たちは穴から引き揚げられる。苦しみから救われる」
「キリストは転んだだろう。愛のために。自分のすべてを犠牲にしても」
「お前は今まで誰もしなかった最も大きな愛の行為をやるのだから...」
セバスチャン・ロドリゴは、なんどもあの人「キリストの顔」を思い描きながら転ぶ。
主よ あなたは 何故------黙ったままなのですか?
『キリスト、最後の誘惑』(The Last Temptation of Christ)
同じくマーティン・スコセッシ監督の映画。かなりの問題作であった。ビデオを買って、何回も見た。キリストを信じる人々には、マグダラのマリアとの人間的な生活をするイエスにはショッキングだったと思う。「神が人間になった!」と思うと、もはや信仰どころではない。
キリストを演じたのは、ジャングルの恐怖の中で戦った映画『プラトーン』のウィレム・デフォーだった。
私は、やはり映画『沈黙 - サイレンス』を、今はまだ観ないことになりそうだ。
イエスの顔(踏絵)
〈イエスの顔(踏絵)〉映画「沈黙」より