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聖痕を受けるフランチェスコ:ジョットジョット〈聖痕を受けるフランチェスコ〉

フランチェスコ不在におこった会則問題

フランチェスコが不在の間に、厳しい規律を緩和しようとする動きがあり、彼にとっては容認しがたい事態になっていた。イタリアに帰って来たフランチェスコは、ボローニャの兄弟団が寄進された建物に定住して学問に打ち込んでいることを知ると、呪いの言葉を吐いて病人を含む全員が建物から出ることを命じている。

当時の書物は高価であり、学究生活は清貧と宣教にはなじまないとしてフランチェスコは常々戒めていた。

フランチェスコがポルツィウンクラに戻ってくると、そこにはアッシジ市が寄贈した建物が建てられていたので、屋根に上って瓦を剥がし始めた。

それを止めさせるためには、アッシジ市の役人が「その建物は寄進したものではなく貸与したものであり、所有権はアッシジ市にあるので壊さないでくれ」と説得するしかなかった。

国を越えて多くのメンバーを集めていた小さき兄弟団は組織化を必要としていたし、その円滑な運営のためにはフランチェスコの求める規律は厳しすぎると、多くが感じていた。

さらにそうしたメンバーの多くは、例えばハンセン氏病患者の世話の義務なども厳しすぎるとして、その緩和を求めていた。

フランチェスコの死後、フランシスコ会では「穏健派」と「厳格派」とが対立することになるが、その萌芽が現れていたのである。フランチェスコは兄弟団の規律の緩和に関してはどうしても応じられず、事態は行き詰ってしまう。

雛が多すぎて翼の下に置ききれない雌鶏の夢をこの頃フランチェスコは見ており、自分の能力を越えたところまで兄弟団が成長したことを悟ることになった。

フランチェスコは1220年に兄弟団の総長職を古くからの同志であるカッターニに譲り、以降は精神的指導者では有り続けるものの、隠遁生活に入る。

聖痕を受けるフランチェスコと死

フランチェスコの死ジョット〈フランチェスコの死〉

1223年のクリスマス。ジョバンニという貴族から提供されてグレッチオの山中に滞在していたフランチェスコは、クリスマスを祝うにあたって聖書に描かれたベツレヘムを再現しようと思い立った。厩舎や飼葉桶を設えたうえで、雄牛やロバを連れてきてミサを行った。

このミサは、フランチェスコが赤ん坊を抱き上げる姿をはっきりと見たと証言する者がいたほどに、参列者に強い印象を与えた。世界中のカトリック教会では今日に至るまで、クリスマスになると聖堂内に厩舎の模型を設えている。

1224年にはラヴェルナ山中において六翼の天使から聖痕を受けたとされている。聖痕とは、十字架刑に処せられたキリストの5か所の傷(両手、両足と脇腹)と同じものが身体に現れたものをいう。これは、キリストの模倣を徹底させようとしたフランチェスコの高い精神的境地を象徴する奇跡とされた。

キリスト教史上、フランチェスコのそれは、聖痕の最初の事例であり、数少ない男性の事例でもある。

聖痕を受けた後、フランチェスコは再び各地を回り始めるが、身体が弱り始めていた。頭痛に悩まされ、目はほとんど見えなくなり、サン・ダミアノ教会でキアラの看病をしばらく受けた。フランチェスコの代表作『太陽の賛歌』(あらゆる被造物の賛歌)は、この時期に作られたとされている。

総長職を務めていたエリアの説得で、フランチェスコは教皇の医師団の診察を受けることになったが、病状は回復しなかった。死期をさとった彼は滞在先のシエナ、そしてチェッレで遺言を書きとらせ、活動の原点だったポルチウンクラへの帰還を希望した。

聖人との評判が高まっていたフランチェスコの聖遺骸を切望する各都市の思惑を避けるために、アッシジから軍隊が派遣されてフランチェスコは故郷に護送された。

アッシジ市内の司教館で最後の日々を過ごしたのち、フランチェスコはポルチウンクラに運ばれ、市民たちが警護に当たる中、1226年の10月3日に死んだ。

臨終に当たっては『太陽の賛歌』の斉唱と『ヨハネ福音書』の受難の箇所の朗読が行われ、フランチェスコは地面に敷いた苦行衣のうえに裸で横たわり息を引き取ったという。

フランチェスコの列聖

フランチェスコの列聖が宣言されたのは1228年7月。死後2年にも満たない迅速なこの処置はグレゴリウス9世、かつてフランチェスコを庇護して助言を与えていたウゴリーノ枢機卿によるものだった。1230年にエリアが建てさせた壮麗なサン=フランシスコ大聖堂の地下に移葬された。

アッシジの聖フランチェスコ聖堂〈アッシジの聖フランチェスコ聖堂〉