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肩でラテラノ大聖堂を支えるフランチェスコ:ジョットジョット〈肩でラテラノ大聖堂を支えるフランチェスコ〉

フランシスコ会の設立

家を出たフランチェスコは、修復したポルツィウンクラの小聖堂ちかくに住んだ。このポルツィウンクラの地は、フランチェスコと後のフランシスコ会にとって重要な地となる。

日々の食事は、肉体労働もしくは托鉢(たくはつ)でえた。金銭は受けとらず、初期のフランシスコ会の人々は金銭をさけ、手をふれることさえ嫌った。それゆえ、同じころのドミニコ会と共に「托鉢修道会」と呼ばれるようになった。

ある日、ポルチウンクラの小聖堂で行われたミサで福音書が朗読される。イエスが弟子たちを各地に派遣するときのことだ。フランチェスコは、イエスの言葉に感動した。

「行って、「神の国は近づいた」と伝えなさい。あなた方がただで受けとったものは、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も入れて行ってはならない。旅のための袋も、替えの衣も、履物も杖も、もっていってはならない」

このイエスの生活を完全にまねることがフランチェスコの生活のすべてとなった。「裸のキリストに裸でしたがった」のである。フランチェスコが宣教を始めたのは1208年もしくは1209年のことである。彼は、ラテン語ではなく、日常のイタリア語を使った。この頃のフランチェスコは「神の道化師」と呼ばれている。

フランチェスコらは「アッシジの悔悛(かいしゅん)者」と名のっていた。やがて彼らは自らの集団を「小さき兄弟団(Ordo Fratrum Minorum)」と名のるようになっていく。フランシスコ会の正式名称である。

フランシスコ会、インノケンティウス法王に認可される

教皇インノケンティウス3世に謁見するフランチェスコの一行ジョット〈教皇インノケンティウス3世に謁見するフランチェスコの一行〉

1210年、12人になっていた「小さき兄弟団」はローマに向かい、教皇イノケンティウス3世に謁見し、活動の許可を求めた。もともと、聖職者や修道士は托鉢を禁止されていたし、司祭職の権限を持たない俗人が、説教を行うことも問題視されていた。

汚れたぼろをまとった兄弟団を最初に見たとき、教皇は不快に感じたとも伝えられている。しかし何度かの謁見の後、口頭によるものではあったにせよ、小さき兄弟団の活動に認可を与えた。聖人伝の伝えるところでは、教皇は夢の中で傾いたラテラノ聖堂をたった一人で支えた男の姿を見ており、その男こそがフランチェスコであると悟ったからだという。

このときフランチェスコは教皇に兄弟団の生活規則を記した文書を提出しており、これは今日「原始会則」と呼ばれている。が、この時点ではまだ修道会を作るつもりではなく、活動を認めてもらうくらいのことであった。

一切の所有を拒否することなどを含む、福音の完全な実践をうたったその内容に、枢機卿たちは実行が困難として難色を示した。その否定的な空気をくつがえしたのは、ジョバンニ・コロンナ枢機卿の一言であったという。

「そのような理由ではねつけたとあらば、福音が実践不可能であると宣することになります。さすれば、福音をお与えになったキリストを冒涜することになりますまいか」