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東方の三博士とヘロデ王

「なぜ幼子が聖人なのか?」——この疑問は、「聖なる幼子殉教者」という名を初めて聞いた多くの方が、自然に抱く思いではないでしょうか。

自分の意志で信仰を告白したわけでもなく、名前すら伝えられていない幼い子どもたちが、なぜ聖人として記念されているのか。その理由は、イエス・キリストの誕生をめぐる出来事の“裏側”にあります。

12月28日は、イエスの誕生直後に起きた、あまりにも痛ましい出来事を心に刻む日です。本日はまず、「なぜ幼子たちが殉教者と呼ばれるのか」という問いから、この出来事の意味を見ていきましょう。

なぜ幼子たちは「殉教者」と呼ばれるのか

殉教とは、本来、信仰のために命を捧げることを意味します。そのため、信仰を言葉で告白することのできない幼子たちが殉教者とされることに、違和感を覚える方も少なくありません。

しかし教会は、彼らを「キリストのために殺された者」と理解してきました。ヘロデ王が恐れたのは、自分に取って代わる「新しい王」、すなわち誕生したばかりのイエスでした。

その恐れの結果として、幼子たちはイエスの身代わりとなるかたちで命を奪われたのです。

言葉を持たず、信仰を語ることもできなかった彼らは、その存在そのものによって、キリストの到来を証ししました。この点において、教会は彼らを最初の殉教者として記念してきました。

ヘロデ王とはどのような人物だったのか

この悲劇を理解するためには、まずヘロデ王がどのような人物だったのかを知る必要があります。イエスが誕生した当時のイスラエルを治めていたのが、ヘロデ王でした。

ヘロデはユダヤ人の王家の血筋ではなく、ハスモン王朝の王女と結婚することで王権を得た人物です。その立場は常に不安定で、自分の地位を脅かす可能性がある者を、容赦なく排除してきました。

イスラエルは当時、ローマ帝国の属国でした。ヘロデはローマに忠誠を誓う一方で、ユダヤ人の信仰心の強さを理解し、エルサレム神殿の大改修など、多くの建設事業を行っています。しかしその内面には、恐れと猜疑心が渦巻いていました。

東方の博士たちがもたらした知らせ

そんなヘロデのもとに、ある日、東方から三人の博士が訪れます。彼らは星のしるしによって、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」の誕生を知り、その方を拝むために長い旅をしてきました。

博士たちが幼子の居場所を尋ねたとき、ヘロデの心には強い恐怖が生まれます。「自分以外に王がいる」という知らせは、彼にとって最大の脅威だったからです。

ヘロデは祭司長や律法学者を集め、メシアが生まれる場所を調べさせます。そして、それがベツレヘムであると知ると、表向きには「自分も拝みたい」と言って博士たちを送り出しました。

しかし、その心中では、幼子を殺す計画が進められていました。

ベツレヘムで起きた幼子虐殺

博士たちは、幼子イエスを拝んだ後、夢で「ヘロデのもとに戻ってはならない」と告げられ、別の道を通って帰国します。このことを知ったヘロデは激しく怒り、ついに恐ろしい命令を下しました。

それは、ベツレヘムとその周辺にいる二歳以下の男の子をすべて殺す、というものでした。この出来事は「幼子虐殺」と呼ばれ、マタイによる福音書2章に記されています。

一方、ヨセフは天使のお告げによって危険を知らされ、マリアと幼子イエスを連れてエジプトへと逃れます。

こうしてイエスは救われましたが、その影で、多くの幼い命が奪われました。伝承によれば、その数はおよそ20人ほどだったと考えられています。

私たちに投げかけられる静かな問い

聖なる幼子殉教者の記念日は、私たちに静かな問いを投げかけます。弱く、声を上げることのできない存在は、社会の中でどのように扱われているでしょうか。

権力や恐れ、自己保身が支配するとき、最初に犠牲になるのは、いつの時代も小さな命です。この出来事は、決して過去の物語ではありません。現代に生きる私たちもまた、同じ問いの前に立たされています。

神は、歴史の中心ではなく、最も弱いところに目を向けられます。名もなく、記録にも残らなかった幼子たちを、聖人として記念する教会の姿勢は、そのことを静かに物語っています。

まとめ:聖なる幼子殉教者

聖なる幼子殉教者は、言葉を語らず、行いを残さずして、キリストの光を証しした存在です。

彼らの命は奪われましたが、その死は決して無意味ではありませんでした。12月28日は、クリスマスの喜びのすぐ後に訪れます。

救い主の誕生は、同時に人間の罪と恐れを照らし出します。そして神は、その闇の中で、最も小さな命を決して忘れないことを、私たちに示しておられるのです。

この日、私たちもまた、声なき命に心を向け、神のまなざしを分かち合う者でありたいと願います。