2月5日は、カトリック教会で「日本26聖人殉教者」を記念する日です。
この日、長崎の西坂には26本の十字架が立てられました。そこにかけられたのは、司祭や修道士、そして名もなき信徒たちです。
彼らは恐れの中でも祈りを手放さず、聖歌を歌いながら最期の時を迎えたと伝えられています。
今日は、その出来事が私たちに語りかける意味を、静かにたどってみましょう。
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1549年、聖フランシスコ・ザビエルが来日し、宣教が始まりました。信仰は少しずつ広がり、大名や武士の間にも受け入れられていきます。
豊臣秀吉も当初は宣教師を保護したとされます。しかし時がたつにつれ、宣教の広がりを警戒し、国外追放や教会破壊などの命令が出され、公の宣教は厳しくなりました。
一方で秀吉は貿易の発展には前向きで、1593年にフランシスコ会士ペトロ・バプチスタが関わる交渉の後、京都での宣教が許可された時期もあります。
信徒は増え、当時の信徒数は30万人規模に達したとも伝えられています。
1596年、フィリピンからメキシコへ向かうスペイン船が、四国の海岸で座礁しました。これが、いわゆるサン・フェリペ号事件です。
積み荷の扱いをめぐって緊張が高まり、宣教師側と政権側の関係は一気に冷え込みます。
その結果、京都・大阪周辺にいたフランシスコ会士、イエズス会士、そして信徒らが捕えられ、死刑が命じられました。
その中には、幼い子どもも含まれていました。
捕えられた一行は、京都、堺、大阪などで引き回された後、長崎へ送られます。しかも馬や船ではなく、徒歩での長い移動でした。
寒さと疲れの中でも、彼らは互いに励まし合い、祈りを続けたと伝えられています。途中で世話をしていた信徒2人も、自ら一行に加わりました。
信仰は、誰か一人の勇気だけでは支えきれません。小さな支えが集まって、最後の道が守られていったのだと思わされます。
長崎の西坂には、26本の十字架が立てられました。
彼らはそこで十字架刑を受け、最期までともに祈り、聖歌を歌いながら殉教を遂げたと記録されています。
この殉教は、日本の教会にとって初穂と呼ばれることがあります。悲しみだけで終わらず、信仰の種として受け継がれていったからです。
西坂は、今では巡礼地として訪れる人の多い場所になっています。また、長崎の日本二十六聖人記念館では、遺品の一部が伝えられ、展示されています。
殉教の場で、彼らが祈り、聖歌を歌いながら最期を迎えたことは、複数の資料で繰り返し語られています。
言葉を一つだけ切り出すよりも、ここでは「祈りと歌で神に向かった」という姿そのものを、今日の学びとして受け取りたいと思います。
苦しみの中で、人は黙り込むこともあります。それでも彼らは、神への言葉を手放しませんでした。その静かな強さが、今も読む人の心を揺らします。
この記念日が伝える中心は、証し(あかし)です。証しとは、口先の主張ではありません。
生き方そのもので、神への信頼を示すことです。
日本26聖人殉教者は、信仰が社会の中で強い圧力を受ける時、何を手放し、何を守るのかを問いました。
彼らは地位や安全よりも、神との結びつきを選びました。現代の私たちも、毎日の中で小さな選択を繰り返しています。
祈りを後回しにしない。困っている人に一言かける。正直でいる。そうした小さな選択の積み重ねが、信仰の姿を形づくっていきます。
ゆかりの地として最も知られるのは、長崎の西坂です。現在は日本二十六聖人記念館と記念聖堂があり、巡礼や学びの場となっています。
また、26聖人の殉教を描いた絵画や版画は、カトリックの歴史を伝える図像として各地で残されています。人物の多くが十字架とともに描かれ、殉教の場が一つの群像として表されるのが特徴です。
歴史を「出来事」としてだけでなく、「祈りの記憶」として受け取る助けになります。
日本26聖人殉教者は、1597年に長崎・西坂で殉教した26人の信仰者です。
サン・フェリペ号事件などを背景に捕えられ、引き回しと徒歩の移送を経て、十字架の上で最期を迎えました。
それでも彼らは祈りを捨てず、聖歌を歌いながら神に向かったと記録されています。
苦しみの中で信仰を守ることは簡単ではありません。
けれど、日々の小さな誠実さと祈りが、私たちの心を支えます。今日という一日を、神に向き直す日にしてみませんか。