9月18日は、カトリック教会で「聖ヨセフ・クペルティノ」を記念する日です。
彼は1603年にイタリアで生まれ、勉強が苦手だったり、人からあざけられたりする子ども時代を過ごしましたが、祈りと信仰によって驚くべき変化を遂げます。
空を飛ぶ修道士と呼ばれるほどの神秘的な体験もあり、その生き方からは今でも多くの人が励まされています。彼の人生を通して、何が本当に大切かを一緒に考えてみませんか。
Contents
ヨセフは生まれつき体が弱く、また学問の面でも人より遅れていたため、子どもの頃から学校でからかわれることがよくありました。
父親はヨセフの生まれる前に亡くなり、母親は借金のために家を手放すなど、厳しい家庭環境でした。
修道生活を望み、まずは修道会に入りたいと願いましたが、教育が足りないという理由で受け入れられないことが続きました。Capuchin会に仮に入るも、霊的な体験(幻覚ではなく神秘体験とされる)などが「務めに耐えられない」と判断されて追い出されてしまいます。
その後、ラ・グロッテラのフランシスコ修道院(Santa Maria della Grotella)で馬丁(馬や動物の世話など)として働くことを許され、修道院の他の修道士たちはその純粋さと祈りの姿勢からヨセフを認めるようになりました。
1628年にはついに司祭に叙階されます。
司祭になった後も、ヨセフはひたすら祈りと断食、謙遜(けんそん)な生活を続けました。特に祈りの中で神秘体験をし、**宙に浮かぶ(レヴィテーション/浮遊)**ことが度々起こったと言われ、人々から「空飛ぶ修道士」と呼ばれるようになりました。
教会の指導者たちは、このような神秘的な現象が誤解を生じないように注意し、ヨセフを人目につかない修道院に移すなどの措置をとりました。彼は晩年までほとんど閉じられた生活を送りますが、不満を言わずすべてを受け入れ、神にのみ信頼を置いていました。
ヨセフは健康がずっと弱く、晩年は病を患い、1663年9月18日に亡くなりました。
その後、1753年に教会によって列福され(聖人に近い存在と認められ)、1767年には完全に聖人として認められます(列聖) 。
I like not scruples nor melancholy: let your intention be right and fear not.
(訳:私はこまかい気掛かりや憂鬱を好まない。意図を正しく持てば、恐れなくてよい。)
この言葉は、ヨセフが「完璧でなければならない」「すべてを完全に理解しなければ」と思い悩む人々に向けられているようです。
ヨセフ自身、学びにおいて遅れを感じ、人から批判されることもありましたが、「意図(心・意志)」を神に向けて正しく持つことが、大切であり、それによって恐れを手放せるという信仰の姿勢を示しています。
私たちも、勉強や仕事で「もっと完璧でいたい」「周りの期待に応えなければ」と思う場面があります。そのときこの言葉を思い出すとよいでしょう。心がまっすぐであれば、不安や恐れがあっても一歩踏み出せる可能性があります。
ゆかりの地
イタリア、オシーモ(Osimo):ヨセフの晩年を過ごした修道院と聖ヨセフ・クペルティノ教会(Basilica di San Giuseppe da Copertino)があり、彼の遺体は現在ガラスのサルコファガス(棺)に収められ、巡礼の地となっています。
出身地クペルティノ/Cupertino(イタリア):子ども時代や初期の修道生活に関係する場所があります。
著作・伝記
直接ヨセフ本人が書いた書物は多く残っていませんが、伝記や聖人認定の調査書(過失証言/証言録)が後世に整理されています。
英語などで「St. Joseph of Cupertino」の伝記本があり、彼の生涯と神秘体験について詳しく述べられています。
芸術・文化
教会内部の絵画や彫刻で彼の浮遊(レヴィテーション)の場面が描かれているものがあります。例えばオシーモの聖堂には、彼が浮かぶ姿の絵が祭壇の後ろにあることが知られています。
また、映画「A Reluctant Saint」(邦題:『聖なるさかしま』などで翻訳されていることもある)というヨセフの物語に基づいた作品があります。
聖ヨセフ・クペルティノは、生まれながらに優れていた人ではありませんでした。学びが苦手で、健康も弱く、周囲から軽んじられることもありました。しかし、祈りと謙虚さと神への信頼をあきらめずに持ち続けたことで、他の人には見えない神の働きがその人生の中で明らかになりました。
聖人と認められたのは、彼が空を飛ぶなどの奇跡だけではなく、日々の苦しみを不満を言わず受け入れ、神の意志を探し、従おうとした姿勢があったからです。
私たちにも、ヨセフから学べることがあります。例えば、試験や学業で不安になったり、人と比べて自分が及ばないと感じたりする時。「意図を正しく持つ」ことが、神に信頼して前を向く助けになるかもしれません。