※本ページにはプロモーションが含まれています。

聖カリスト1世

10月14日は、カトリック教会で「聖カリスト1世(聖カリストス1世)」を記念する日です。

彼はかつて宮廷奴隷という境遇から教皇(ローマの司教)へと召され、数々の困難や批判を乗り越えて信仰の道を全うされました。その生涯には、赦しや回心というテーマが色濃く現れており、今日の私たちにも多くの示唆を与えてくれます。

最後まで読めば、あなたもきっと「赦し」の大切さを感じられるでしょう。

聖カリスト1世|プロフィール

  • 名前
    カリスト1世/Callixtus I or  Callistus I
  • 生没年
    生年:2世紀中ごろ〜およそ222年(あるいは223年とも)
  • 出身地・時代背景
    ローマ(あるいはローマ帝国の領域)出身と考えられる。帝政ローマ時代、皇帝エラガバルスやアレクサンデル・セウェルスが支配する時代にあたる。
  • 肩書き・役職
    教皇(ローマ司教、ローマ教会の首長)
    殉教者(キリスト教徒として殺害されたと伝えられる)

聖カリスト1世の生涯

青年期からの転機

カリストはもともと 宮廷奴隷 であったと伝えられています。

彼はあるとき、主人から預けられた金を管理していたものの、それを無くしてしまったという出来事がありました。その責任を恐れて逃げ出したため、公金横領の罪に問われました。

やがて捕まり、彼は奴隷の肉体労働(手押し工場/穀粉工場など:古代ローマの過酷な労働)に落とされました。
また、キリスト教徒と判明したため、サルディニアの鉱山に送られたという伝承もあります。

こうした苦難の中で、彼は信仰を深めつつ、赦しと復活の道を歩み始めたのでしょう。

信仰と活動の展開

後に、皇后マルチアの配慮(あるいは皇室の影響力を通して)により、自由の身となったとする伝承があります。

ローマに戻った後、教皇ゼフィリノの注意を引き、助祭(ディアコノス)として仕え、教会の様々な業務を任されるようになりました。 ゼフィリノの死後、217年ごろ(あるいは218年)にカリストが第16代教皇として選ばれます。

教皇として、彼が特に重視したのが神のあわれみと赦しです。彼は、公に罪を犯した人々(例えば姦淫、殺人など)であっても悔い改める者には赦しを与えるべきだと主張しました。

この方針は一部の教父たちから厳しく批判され、ヒッポリュトスが反対し、対立して「反教皇(アンティポープ)」を名乗るほどの分裂が生じました。

また、彼はローマ初期教会の 埋葬地(カタコンベ、墓地)を整備 し、教会が直営で墓地を持つという先例を残したとの記録もあります。特に「カリストのカタコンベ」は、後に多くの殉教者や教皇たちが葬られる場所となりました。

晩年と殉教

カリストの最期には複数の伝承があります。一つには、ローマでキリスト教徒に対する暴動が起きた際、暴徒に襲われて殉教したとするものです。

また、彼の遺体は井戸に投げ込まれたとも伝えられ、夜中にある司祭(アステリオス)がその遺体を回収して埋葬したとの伝説もあります。ただし、歴史的に確実な記録は乏しく、いくつかの物語は後世の伝承によるものと考えられています。

カリストは、ローマの カレポディウスの墓地に埋葬されたとされています。

彼の殉教は、ローマ教会初期の信仰の証しとして、また「教皇でありながら殉教した最初の例(ただし聖ペトロを除く)」とも言われることがあります。

聖カリスト1世の名言・エピソードから学ぶ

確かな記録として残っている 完全な名言 は非常に少ないのですが、教会の伝承や祈祷文の中に、彼の信仰的な精神を反映した言葉を見つけることができます。

たとえば、祈祷文や日課の祈りの一節にこうあります。
もし罪があふれるなら、あわれみもあふれよ。主の手にあらゆるものの豊かさがあるから。
(“If offences abound, then let mercy also abound; for with the Lord there is mercy, and with Him is plenteous redemption.”)

この言葉は、 罪がどれほど大きくとも、神のあわれみはそれを超える という信仰を表しています。
背景として、彼自身が失敗や挫折を経験し、また教会内部からも厳しい批判を受けながら、なお赦しと慈愛を主張し続けた姿勢が、この言葉と深く響き合います。

カトリック的ポイント解説

神のあわれみ(慈しみ)の強調

カリスト教皇は、教会が過ちを犯した者――たとえ重大な罪を犯した者――にも改めて戻ってくる道を開くべきだと考えました。これは、イエス・キリストの福音の中で語られる「赦し」の精神を具体的に教会の懐に取り入れようとする姿勢です。

この立場は、一部の初代教父(特にヒッポリュトスやテルトゥリアヌス)から “ゆるすぎる” として批判されました。彼らは教会規律を重んじ、重大な罪には厳しい懲戒を求めたからです。

しかし、カリストは「信仰共同体が救いの場である」こと、そして「罪人にも回復の希望がある」ことをあきらめずに説きました。これは、今日のカトリック信仰でも非常に大切にされているテーマです。

赦しと回復の道

彼の教えによれば、教会は過ちを犯した者を永遠に拒むのではなく、悔い改める者を迎え入れる装置であるべきです。罪にとらわれた者にも、再び光の中へ戻る道を提示すること。これは、信仰生活における「回心」「懺悔」「再出発」の力につながります。

礼拝と埋葬の場としての教会

カリストは、教会が単なる礼拝の場だけでなく、信徒の生と死を見守る場所であることを重視しました。特に、カタコンベ(初期キリスト教の地下墓地)は、殉教者や信徒を共に祈りと記憶でつなぐ空間でした。彼がその整備に関与したことは、教会の「祈りと記憶」の使命を今に伝えるものです。

聖カリスト1世|ゆかりの地・書籍・芸術

  • ゆかりの地
    ローマ市内、トラステヴェレ地区にある パラッツォ・サン・カリスト(Palazzo San Callisto)は、伝統的に彼ゆかりの地とされています。敷地内には、伝承によれば彼の殉教に関連する井戸もあるとされます。
    また、彼が埋葬されたとされる カレポディウスのカタコンベも、彼と深い関係を持つ場所です。
  • 書籍・伝記
    カリストの生涯を扱った信仰書や聖人伝が、カトリック界には少なからず存在します。ただし、彼の本人記録は非常に限られているため、それらの多くは後世の伝承や教父文献に基づくものです。例えば、ヒッポリュトスの著書『Philosophumena(反異端論)』にはカリストへの批判的記述が含まれていますが、史的評価には慎重さが必要です。
  • 芸術作品
    直接「カリスト1世」を題材にした著名な映画や画家による作品は多くはありません。ただし、ローマの古代カタコンベや殉教者像などの芸術表現の中で、殉教者教皇としての象徴的姿が描かれることがあります。巡礼地などで見ることができる意匠も、信者にとっては彼の存在を感じる手がかりです。

まとめ|今日の聖人から学べること

聖カリスト1世の生涯は、失敗と回復、そして赦しと信仰の継続というテーマに満ちています。

彼は、もともと宮廷奴隷という下層の立場から、教会の中心である教皇にまで召されました。しかも、彼が教皇として最も力を入れたのは、「罪を犯した者への配慮」「あわれみの心」「再び立ち上がる道を示すこと」でした。

彼の信仰の道は、今日の私たちにも問いを投げかけます。人は過ちを犯すものです。しかし、神のあわれみはそれを超える豊かさを持っておられます。教会は、裁く場ではなく、回復の場であるべきです。

私たちも、もし誰かに傷つけられたとしても、赦す力をいつくしみのうちに育てたいと思います。そしてまた、もし自分自身が過ちを犯したときには、再び立ち上がる希望を捨てずに、神のあわれみとともに歩みたいものです。