レオ大教皇とアッティラの会見
11月10日は、カトリック教会で「聖レオ1世」を記念する日です。
彼は5世紀、混乱の中にあった教会と世界において、信仰を守るとともに、教会のリーダーとして大きな働きをした人物です。
今回は、異端と闘い、ローマを守った「大レオ」と呼ばれた教皇の人生を、親しみやすく振り返ってみましょう。
Contents
レオはイタリアのトスカーナ地方に生まれ、若いころから教会の仕事に携わりました。温厚で知恵深く、助祭(デアコン)としても高い信頼を得ていました。
その後、440年に第45代ローマ教皇に選ばれます。当時のローマは政治的にも不安定で、教会内でも信仰をめぐる議論が絶えない時代でした。
教皇となったレオ1世の前に立ちはだかったのは、「キリストの本質(神であり人である)」をめぐる激しい論争でした。
その一人、コンスタンチノープルの修道院長エウティケスは、431年のエフェソ公会議で異端とされたネストリウス派(「イエスは人間であって神ではない」とする説)に強く反発するあまり、
今度は反対に「キリストは真の神であって、真の人間ではない」という極端な説を唱え始めました。
この主張は、イエス・キリストの人間としての苦しみや愛を否定するものであり、信仰の中心を揺るがす問題でした。
レオ1世はすぐにこれを異端として退け、神学的に明確な立場を打ち出しました。
彼は有名な書簡「トメ(Tome of Leo)」を執筆し、451年のカルケドン公会議で読み上げられます。
そこには、「キリストは真の神であり、真の人間である」という明確な言葉が記されていました。
このとき、司教たちは感動して「これはまさに使徒ペトロの信仰である! ペトロがレオの口を借りて語った!」と叫んだと伝えられています。
この出来事により、教会の信仰告白は一つにまとめられ、レオは「教義を守った教皇」としてその名を歴史に刻みました。
教義の混乱だけでなく、ローマの街そのものも外敵の脅威にさらされていました。
452年、フン族の王アッティラが北イタリアを侵略し、ローマへ迫ります。武力では太刀打ちできないと悟ったレオ1世は、ただ信仰と説得の力を頼りに、アッティラとの会談に臨みました。
彼はアッティラに平和を求め、ローマ市民の命を救うよう懇願しました。すると、アッティラは不思議にも心を動かされ、軍を引き上げたのです。
その理由は正確にはわかっていませんが、後に人々は「神がレオの言葉に力を与えた」と語り継ぎました。
この出来事は、「祈りと対話の力が、暴力よりも強いことを示した象徴的な瞬間」として、今もカトリック教会で語り継がれています。
レオ1世は在位21年ののち、461年11月10日にローマで亡くなりました(この日が聖人の日)。
彼は多くの説教や手紙を残し、その中で「愛と秩序による教会の一致」を説きました。
のちに「大レオ(Leo the Great)」と呼ばれ、教会博士として正式に列聖されます。
彼の活動そのものが名言的な語り口を伝えています。例えば、彼の書簡では「キリストは真の人間であり、真の神である」という信仰の告白が明確に打ち出されています。
この信仰宣言を通じて、レオは教義の混乱に揺れる教会に「定まった言葉」を与えました。異端論が広がる中、「どのようにキリストを理解すべきか」を明らかにした彼の姿勢は、私たちの時代にも「揺らがぬ信頼をどこに置くか」という問いを投げかけます。
また、アッティラとの交渉に臨んだ時、非武装の教皇が敵対者の前に立ったという伝説もあります。これは「権力ではなく対話と信頼によって人を動かす」可能性を示すエピソードとして語られています。
レオが重視したのは「二性一位(ひとりのキリストにおいて、人間性と神性が分かれず、混ざらず、一つの位格においてある)」という教義でした。これは教会の基礎的な信仰告白の一つであり、レオはこの教えを明瞭にし、教会全体の統一を図りました。
また、教会が世俗の混乱・飢饉・異民族の侵入などに直面するなかで、教皇として「教会の首位権」を主張し、教会の統治・救済・宣教の責任を重く受け止めました。
私たちが現代に生きるとき、幾つかの教えが参考になります。
聖レオ1世の人生は、教会が揺れ、世界が混迷する時代に、信仰の根幹を守りつつ、実践として人々を救おうとした姿です。
「キリストは真の神であり、真の人間である」という確信が、彼の教えと行動の根底にありました。それは信仰の真理とその生き方が切り離せないものであることを教えてくれます。
リーダーとして、あるいは信仰者として、揺らがない信仰とともに、飢餓・争い・苦しみに寄り添う態度を持つこと――それが、レオが現代に残してくれた大切なメッセージと言えるでしょう。