1月19日は、カトリック教会で「聖カヌート4世」を記念する日です。
北欧デンマークの王で、国を強くし、教会を支えようとした改革者として知られます。しかし、その改革は反発も呼び、最後は教会で命を落としました。
いまの私たちにも響く「信仰と政治」「正しさと人気」のはざまを、一緒にたどってみましょう。
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カヌートはデンマーク国王スウェーノ2世の息子として生まれ、幼いころから王としての教育を受けて育ちました。ところが、王位はすぐには回ってきません。
国内の有力者(諸侯)たちは、カヌートの信仰の深さや姿勢を警戒し、弟のハラルドを国王に選びました。カヌートはスウェーデン王のもとへ身を寄せ、機会を待つことになります。
やがてハラルドが亡くなると、諸侯たちはカヌートを国王として迎えました。彼は寛大で、周囲の心をつかんだと伝えられます。
同時に、当時の海の脅威と向き合い、軍を率いて戦い、さらに配下の者の海賊行為を禁じたとされます。
カヌートの治世で目立つのは、国の仕組みを整える改革と、教会への支援です。財政を立て直し、王の権限を強めて国をまとめようとしました。
あわせて教会を守り、十分の一税(教会を支えるための税)を集めることを進めた、と複数の資料が伝えています。
また、フランドルの王女アデラと結婚し、西ヨーロッパのキリスト教世界との結びつきを強めました。教会や修道院を整え、オーデンセの修道院(のちの信仰の中心)とも関わったとされます。
本人はぜいたくを好まず、質素に暮らし、祈りを大切にしたとも記録されています。
1085年に、彼の政策に不満をもつ諸侯たちによる反乱は、いくつかの要因が重なったと考えられています。
2. 十分の一税の徹底
教会を支えるための徴収を進めたことは信仰面では大きな一歩でしたが、現場では「負担が増える」と受け止められやすい面がありました。
3. 艦隊の動員(軍役)と王権強化
1085年ごろ、カヌートはイングランド遠征を構想し、艦隊を集めようとしたとされます。ところが、動員された人々は収穫の時期に帰れず不満を高め、王の権限を強める政策も、諸侯には「自由が狭まる」ように見えたのでしょう。
要するに、カヌートは「国をまとめ、教会を支え、外の脅威にも備える」ために改革を進めましたが、その進め方が速く、負担も大きく、当時の社会に受け止めきれない部分があった、ということです。
反乱が広がると、カヌートは逃れてオーデンセへ向かい、教会(聖アルバヌスの修道院)に避難しました。しかし1086年7月10日、反乱者たちは教会に入り込み、彼は祭壇の前で殺されました。
死後まもなく、彼は「教会を守った王」「殉教した王」として崇敬され、1101年に列聖されたと伝えられます。デンマークで最初に列聖された王であり、守護聖人ともされました。
はっきりとした「本人の名言」は、確実な形では残りにくい時代です。そこで今回は、信頼できる教会資料が彼について述べた内容から学びを取り出します。
カトリックの事典は、カヌートについて「民の幸せと、教会の益を大切にした」という趣旨で説明しています。
ここから学べるのは、信仰は「自分の救い」だけでなく、「人の幸せ」へ向かう力にもなる、という点です。
政治の世界にいた彼は、信仰を私生活に閉じ込めず、国の仕組みにも反映させようとしました。結果として反発も受けましたが、「守るべきものは何か」を問い続けた姿勢は、いまの私たちの良心にも語りかけます。
カヌートの生涯には、カトリック的に大切なテーマが見えます。
※作品名や制作年が確実に確認できる芸術作品に絞れなかったため、ここでは地名中心の紹介にしています。
聖カヌート4世は、11世紀デンマークで国を整え、教会を支えようとした国王でした。
海賊行為を禁じ、税制改革や十分の一税の徹底を進め、国をまとめる狙いがありましたが、諸侯や人々には負担増として受け止められ、1085年ごろ反発が強まります。
やがて1086年、彼はオーデンセの教会で殺され、殉教者として敬われました。
私たちは彼の生涯から、信仰は心の中だけで完結せず、社会の中で「人の幸せ」を目指して働く力にもなること、そして正しさを貫くことの難しさと尊さを学べます。