
8月1日は、カトリック教会で「聖アルフォンソ・マリア・デ・リグオーリ」を記念する日です。
聖アルフォンソ・マリア・デ・リグオーリは、弁護士、司祭、修道会創立者、司教、そして教会博士という、実に幅広い歩みをした聖人です。
若いころは法曹界で成功し、将来を約束されていました。ところが、一つの大きな裁判で敗れたことが、人生を大きく変えるきっかけとなります。
社会的な成功を手放した彼が、その後に向かったのは、貧しく、十分な司牧を受けられなかった人々のもとでした。
「成功する人生」から「人に仕える人生」へ――その転換こそ、聖アルフォンソの生涯を知る大きな入口です。
聖アルフォンソ・マリア・デ・リグオーリ|プロフィール
- 名前
アルフォンソ・マリア・デ・リグオーリ/Alphonsus Maria de Liguori - 生没年
1696年〜1787年 - 出身地・時代背景
イタリア・ナポリの貴族の家に生まれました。18世紀のカトリック教会では、罪や道徳を非常に厳しく考える風潮も強く、アルフォンソはその中で神のあわれみと人間の良心を大切にする道を示しました。 - 肩書き・役職
弁護士、司祭、レデンプトール会創立者、サンタガタ・デ・ゴーティ司教、倫理神学者、教会博士
聖アルフォンソ・マリア・デ・リグオーリの生涯
将来を約束された弁護士が法廷を去る
アルフォンソは1696年、イタリアのナポリの貴族の家に生まれました。信仰深い母親のもとで育ち、幼いころからラテン語やギリシャ語を学ぶなど、非常に優れた教育を受けています。
法律の分野でも才能を示し、10代で民法と教会法を修めました。若くして弁護士となり、長い間、担当した裁判で勝ち続けるほどの実力を持っていたと伝えられています。
ところが1723年、重要な訴訟で敗れます。資料によって説明の細部には違いがありますが、この敗訴と法曹界への失望が、彼に自分の人生を見つめ直させる大きな転機となりました。
アルフォンソは弁護士としての地位や将来を捨て、聖職者になる道を選びます。
そして1726年、30歳のときに司祭に叙階されました。
貧しい人々との出会いからレデンプトール会を創立
司祭となったアルフォンソは、ナポリの貧しい地域で説教や信仰教育を行いました。学識をひけらかすのではなく、一般の人にも理解できる言葉で語ることを大切にしたため、説教家として広く知られるようになります。
1730年ごろ、休養のため訪れた山間の町スカラで、彼は十分な司牧を受けられない農民や羊飼いたちと出会いました。
福音を聞きたいと願いながら、教えてくれる人がほとんどいない人々の姿は、アルフォンソの心を大きく動かします。
この時期、スカラでは福者マリア・チェレステ・クロスタローサによる女子修道会レデンプトリスチンの創立が進められており、アルフォンソもその実現を支えました。女子贖罪主会は1731年に正式に始まっています。
そして翌1732年11月9日、アルフォンソは数名の仲間とともに至聖贖罪主修道会(レデンプトール会)を創立しました。
目的は、特に貧しい人や、教会の働きが十分に届いていない人々に福音を伝えることでした。
修道会は内外から多くの困難を受けましたが、1749年、教皇ベネディクト14世によって正式に認可されます。
アルフォンソは創立後40年以上にわたって会を導き、宣教と司牧に力を注ぎました。
司教として13年間働き、晩年は病と向き合う
1762年、アルフォンソはサンタガタ・デ・ゴーティの司教に任命されました。すでに66歳で健康にも不安がありましたが、教区の人々のために働き続けます。
司教として約13年間務めたのち、病気が重くなったため、1775年に職を退きました。
晩年は特に関節炎などに苦しみ、体が大きく不自由になったと伝えられています。
それでも、祈りと著作活動を通して人々を導き続けました。1787年8月1日、アルフォンソは91歳で亡くなります。
1839年に列聖され、1871年には教皇ピウス9世によって教会博士に宣言されました。
さらに1950年には、教皇ピウス12世によって告解師と倫理神学者の保護者とされています。
聖アルフォンソ・マリア・デ・リグオーリの名言・エピソードから学ぶ
アルフォンソが何より大切にしたものの一つが、祈りでした。著書『祈り――救いの偉大な手段』の教えを、教皇ベネディクト16世は次の有名な言葉で紹介しています。
「祈る人は救われ、祈らない人は滅びる」
かなり強い言葉に聞こえるかもしれません。
しかし、アルフォンソが言いたかったのは、「祈らなければ神から罰せられる」という単純な話ではありません。
人は自分の力だけでは、いつも正しいことを選び続けられるわけではありません。だからこそ、神に助けを求め、恵みを受けながら歩むことが必要だと考えたのです。
アルフォンソにとって祈りとは、特別な人だけがする難しい修行ではありません。 困ったときにも、迷ったときにも、神に信頼して話しかけることでした。
カトリック的ポイント解説
アルフォンソの神学で特に重要なのが、神のあわれみと良心です。
当時のヨーロッパでは、人間の罪を非常に厳しく考え、神を「罰する方」のように受け取らせる考え方も広がっていました。
反対に、何をしても構わないという考え方もありました。
アルフォンソは、そのどちらにも偏りませんでした。
神の教えを大切にしながらも、人間の弱さや置かれた状況をよく見て、どうすればその人が神へ近づけるかを考えたのです。
この姿勢は、彼の代表作『倫理神学』に集約されています。
教皇フランシスコも、アルフォンソが「厳格主義」と「放任」の間で、人の良心を神へ導く道を示したことを高く評価しています。
また、アルフォンソは聖体への信心を非常に大切にしました。
ミサだけでなく、聖体の前で静かに祈り、キリストとの親しい時間を持つことを勧めています。
現代の私たちにも通じるのは、「正しい答えを知ること」だけで信仰は終わらないという点でしょう。
迷いや弱さを抱えたままでも、祈りながら神に近づいていくことを、アルフォンソは教えてくれます。
聖アルフォンソ・マリア・デ・リグオーリ|ゆかりの地・書籍・芸術
アルフォンソの生涯を知るうえで重要な場所の一つが、イタリア南部のスカラです。
ここで貧しい農民や羊飼いたちと出会ったことが、1732年のレデンプトール会創立へとつながりました。
司教として働いたサンタガタ・デ・ゴーティも、アルフォンソゆかりの地です。晩年を過ごしたパガーニには聖アルフォンソ大聖堂があり、現在もその遺体が安置されています。
著作では、カトリック倫理神学の重要な著作となった『倫理神学』が特に有名です。
日本語では『完徳のしおり』『聖体訪問』などの著作も紹介されています。
このほか『聖母マリアの栄光』『祈り――救いの偉大な手段』など、多くの霊的著作を残しました。
生涯に100冊を超える著作を書いたとされ、学者だけでなく一般の信徒にも伝わる文章を心がけていました。
意外な一面として、アルフォンソは音楽にも才能がありました。
イタリアで今も親しまれているクリスマス聖歌「Tu scendi dalle stelle(あなたは星空から降りてこられる)」の詞と曲を作ったことでも知られています。
日本にも続くレデンプトール会の働き
アルフォンソが創立したレデンプトール会の働きは、日本にも伝えられました。
女子パウロ会の聖人資料では、代々木、鎌倉、諏訪、舞鶴、宮津、吹田、長崎、鹿児島、徳之島などで司牧や施設運営に携わってきたと紹介されています。
また、女子修道会のレデンプトリスチン(厳律至聖贖罪主女子修道会)も日本に根づき、鎌倉、長崎、西都などで修道生活を続けてきました。
18世紀のイタリアで始まった「救いの恵みを、特に見過ごされやすい人へ届ける」という願いが、日本にも受け継がれているのです。
まとめ|今日の聖人から学べること
聖アルフォンソ・マリア・デ・リグオーリは、若くして成功した弁護士でした。
しかし一つの敗訴をきっかけに法廷を去り、司祭としてまったく違う人生を歩み始めます。
彼が目を向けたのは、貧しい農民や羊飼いなど、当時の社会や教会から十分な助けを受けられなかった人々でした。
その出会いからレデンプトール会を創立し、福音を分かりやすく伝えることに生涯をささげました。
また、『倫理神学』を通して、規則をただ厳しく当てはめるのではなく、人間の弱さを理解しながら神のあわれみへ導く道を示しました。
そして、その土台にあったのが祈りです。
「自分だけで何とかしなければ」と抱え込むのではなく、迷ったときほど神に語りかける――アルフォンソの教えは、今を生きる私たちにも、とても身近なものではないでしょうか。
【参考サイト】

![今日の聖人は聖エウセビオ(ベルチェリ)|皇帝に屈せず追放されてもキリストの神性を守った司教[8月2日]](https://art-bible.net/wp/wp-content/uploads/2025/08/august2-300x200.jpg)