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福者ユスト高山右近殉教者

2月3日は、カトリック教会で「福者ユスト高山右近殉教者」を記念する日です。

高山右近は、戦国武将でありながら、信仰のためにすべてを手放す道を選んだ人物でした。

その生き方は、日本の歴史と教会史の両方において、特別な光を放っています。

福者ユスト高山右近殉教者|プロフィール

  • 名前
    高山右近/Justo Takayama Ukon
  • 生没年
    1553年頃〜1615年
  • 出身地・時代背景
    摂津国高山、戦国時代から江戸時代初期
  • 肩書き・役職
    キリシタン大名、武将、福者

福者ユスト高山右近殉教者の生涯

幼少期と受洗

右近は、摂津高山に生まれました。

父である高山友照は宣教師ロレンソの導きによって洗礼を受け、ダリオという霊名を名乗りました。

家族や家臣あわせて百五十名ほどが受洗し、幼い右近もユストという霊名を受けました。

高槻城主としての信仰

右近は二十一歳で高槻城主となります。

城下には荘厳な聖堂が建てられ、多くの人びとが洗礼を受けました。

オルガンティノ神父の報告では、四千人もの信徒がここで誕生したと伝えられています。

右近の生き方は、多くの武士たちに影響を与えました。

領主から流浪の身へ

一五八七年、豊臣秀吉によって伴天連追放令が出されます。

右近は信仰を捨てることを拒み、領地と財産をすべて失いました。

その後、能古島、淡路島、小豆島、肥後などを転々としながら、隠れ住む生活を送りました。

加賀での奉仕と宣教

前田利家に招かれ、右近は客将として加賀に入ります。

金沢城や高岡城の築城に関わりながら、自らを南坊と名乗り、宣教に励みました。

剣ではなく、信仰によって人を導く姿がそこにありました。

追放と死

一六一四年、徳川家康によるキリスト教禁止令が発布されます。

右近は長崎からマニラへ追放されました。

現地では信仰をたたえられ歓迎されますが、長い船旅で体調を崩し、一六一五年二月三日、六十三歳で亡くなりました。

福者ユスト高山右近殉教者の名言・エピソードから学ぶ

右近は多くの言葉を残していません。

しかし、領地より信仰を選んだ決断そのものが、強い証しとなっています。

信仰は、命の中心に置くもの。

その姿勢が、今も私たちに問いかけてきます。

カトリック的ポイント解説

高山右近の生涯は、殉教とは必ずしも処刑だけを意味しないことを示しています。

信仰のために社会的地位や安全を失い、それでも神に従う生き方も、殉教の一つです。

右近は、日本における白い殉教の代表的な存在です。

福者ユスト高山右近殉教者|列福と現代への影響

二〇一七年二月七日、高山右近は大阪で列福されました。

日本人キリシタンの信仰が、教会全体によって正式に認められた出来事でした。

まとめ|今日の聖人から学べること

福者ユスト高山右近殉教者は、力と名誉を持ちながら、それに執着しなかった武将です。

信仰のためにすべてを捨てる選択は、決して弱さではありませんでした。

それは、何を人生の中心に置くのかを見極めた結果でした。

右近の生き方は、現代を生きる私たちにも、静かで力強い問いを投げかけています。