彼は法律家としての道を歩みながらも、牢獄での苦しみを経て信仰に目覚め、説教者・巡察者として欧州を駆け巡った“炎の説教者”でした。
まさに「言葉で、行動で、信仰を形にした人」。
彼の生涯をたどることで、私たちの日常の信仰にも新たな光が射してくることでしょう。
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聖ヨハネ・カペストラノは1386年(または1385年)に、イタリア・カペストラノの男爵(あるいはドイツ人貴族)家に生まれました。
少年期には、家庭や地域の政治的争いに巻き込まれ、6歳の頃に父や兄が亡くなったとの記録もあります(この点は諸説ありますが、若くして家族を失った苦難の背景があります)。
その後、ペルージャ大学で法学を学び、判事として活躍しました。
ところが、判決を巡る恨みによって投獄されるという経験をします。牢獄の中で彼は「この世の権力・富よりも、神の道を生きる価値」の問いに直面しました。
そこで彼は決意を固め、1416年10月4日にフランチェスコ会厳修派に入ります。
修道会に入った後、ヨハネは祈りと説教に身を投じました。
1425年ごろ司祭に叙階され、その後、イタリア国内だけでなく、オーストリア、モラヴィア、ボヘミア、ドイツなど中欧・東欧各地を巡り、熱烈な説教活動を行いました。
彼は群衆を集め、公開広場で説教し、都市や村々に深い影響を与えました。
例えば、一度に12万人以上の聴衆を集めたという記録もあります。さらに、彼は教会・修道会の改革にも力を入れ、フランチェスコ会内の厳修派の立ち上げ・活動を支えた人物としても知られています。
1453年にコンスタンティノープルが陥落し、オスマン帝国の脅威がヨーロッパに迫る中、ヨハネは1456年に“十字軍”の一部として説教を行い、ハンガリーの首都ベオグラード(現セルビア)でオスマン軍に対してキリスト教陣営を鼓舞し、勝利を導いたと伝えられています。
彼は1456年10月23日、帰還途中のイロク(現クロアチア)で没しました。
その晩年は、苦しい環境の中でも説教・行動を続けた“戦う信徒”として、後世に「兵士なる司祭」と称されるほどです。
また、1690年には教皇アレクサンドル8世によって列聖され、カトリック教会における聖人として認められています。
「Those who are called to the table of the Lord must glow with the brightness that comes from the good example of a praiseworthy and blameless life…」
(主の食卓に招かれる者は、称賛に値し、とがめるところのない生き方によって輝く光を放たなければなりません。)
この言葉は、神の前に立つ者(例えば司祭や修道者)が、自身の生活を通して“光”となるよう求められているという意味です。
ヨハネ自身が法律家・判事から修道士・説教者へと転じ、日常生活・説教・行動を通じてその“輝き”を求め続けたことが、この言葉に集約されています。
このように、彼の人生は“言葉だけでなく、生き方で示す”という姿勢を私たちにも問いかけてくれます。
聖ヨハネ・カペストラノは、法学を学び判事となった後、牢獄の苦しみを経て信仰の道に転じた人でした。
彼は説教者として数十万人もの人々の前に立ち、「イエスの名を呼びなさい」「悔い改めなさい」と訴え続けました。
さらに、オスマン帝国の脅威に直面した当時、70歳を超えてなお十字軍の説教と鼓舞に携わり、「兵士なる司祭」として称えられました。
この生涯から私たちが学べるのは、知識・地位・富よりも、むしろ「神に従う」「他者のために身を投じる」「言葉と行動が一致する」生き方の価値です。