10月11日は、カトリック教会で「聖ブルーノ司教」を記念する日です。
聖ブルーノ司教は、教会と社会の改革者でありながら、祈りと信仰の道を大切にした人物でした。
権力を持つ立場を超えて、神と人々のために生きたその歩みには、今日を生きる私たちにも響くものがあります。
では、まずはこの聖人がどのような人生を歩んだのか、一緒に見ていきましょう。
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ブルーノは、925年ごろにドイツ・ケルンで生まれました。
彼は、幼いころから教会に仕える道を歩むように育てられました。父母は貴族出身とされ、彼を聖職へ向かわせました。彼は学問に優れ、ケルンで初等教育を受けた後、フランス・ランスへ行って学びました。
やがて彼は、ランス大司教ジェルヴァジオに認められ、神学校や教区の教育事業を託される立場となりました。
その後、1075年にはレンスの教区秘書局長(司教の側近的な役割)に任命されますが、任命された大司教マナセ(Manassès)が金銭を使って地位を得ていたことを知ると、ブルーノはこれを公然と告発しました。
マナセは追放され、教皇グレゴリウス7世の介入もあり、最終的にはマナセの不正が認められました。 教区側は、次の大司教にブルーノを迎えることを望みましたが、彼自身はそれを固辞しました。
ブルーノは、より深い祈りと神との交わりを求めて、教職の道を離れようと決心しました。
1084年、彼は6人の同志とともに、フランス・グルノーブル司教ユーグの援助を受けて、山中の荒れ地で隠遁生活を始めます。彼らは祈りと黙想、清貧と労働を中心とする生活を送り、これが カルトジオ会(シャルトルーズ会) の起源となりました。
ブルーノは、正式な「修道規則」を書かずとも、当初の共同体の慣習がその後の修道院運営の基盤となっていきました。
その後、彼はかつての教え子であった教皇ウルバヌス2世に呼ばれ、ローマに赴いて教会改革の助言者となりました。ですが、彼自身は過度な権力や世俗性を求めず、修道生活に戻る道を望み続けました。
ブルーノは、ローマでの公務を辞して南イタリア・カラブリア地方の荒野に赴き、ラ・トレという地に第二の修道院を建て、そこで祈りと観想の生活を送りました。
1101年、彼はラ・トレで死亡しました。
ブルーノは、生前には公式に列聖されませんでした。カルトジオ会は謙虚さを重んじ、公の栄誉を避けたためです。
しかし1514年、教皇レオ10世はカルトジオ会に対しブルーノの祭日を祝うことを許可しました。さらに1623年、教皇グレゴリウス15世によってローマ典礼暦への掲載がなされ、全教会で記念されるようになりました。
ブルーノは、多くの著作を残しました。たとえば詩篇注解や聖パウロ書簡への注解が伝えられています。彼の霊性と修道会の精神は、後世の修道運動、教会改革運動、そして信仰における静かな祈りの道にも大きな影響を与えました。
ブルーノ自身がはっきりと残した「名言」は少ないのですが、彼の著作や手紙、後世の伝承を通して知られる言葉があります。
「沈黙と孤独がもたらすものは、神との親しみと愛である。ここで人は自己を知り、神を仰ぎ見ることを学ぶ。」
この言葉は、彼自身が隠修生活を重んじ、言葉を超えた神との交わりを求めた姿勢を反映していると考えられます。
背景と意味を簡単に見てみましょう。
また、ブルーノは教会の腐敗(聖職売買や金銭の権力化など)に対して沈黙せず、正義を訴えたことで信徒や教会関係者から尊敬を集めました。その意味で、名言だけでなく、彼の生そのものが「証し(ゆるぎない生き方)」であったとも言えるでしょう。
ここでは、聖ブルーノ司教の信仰・教え、そして現代の私たちへの示唆を見ていきます。
聖ブルーノ司教は、時の権力や栄誉を離れ、祈りと信仰を中心に据えた生き方を選びました。
教会改革を訴えながらも、祈りと沈黙の道を捨てなかったその歩みは、宗教的使命と人間性を両立する模範となります。
現代においても、忙しさと情報の洪水の中で、静かな時間を保つこと、良心に耳を澄ますこと、必要なものに満足して生きること——そうした原点を彼の生涯が教えてくれます。
私たちも、彼のように祈りの中に神との絆を深め、日々の歩みを神に委ねる信仰を育んでいきたいものです。