アッシジの聖フランチェスコ――。
今から800年以上前、イタリアの小さな町に生まれたこの青年は、やがて世界中の人々に清貧と愛の聖人として知られる存在になりました。
裕福な商人の家に育ちながら、すべてを手放し、神と人々のために生きたフランチェスコ。その歩みには、動物との心温まる逸話や、キリストと同じ傷を負う聖痕の奇跡など、多くの物語が残されています。
本記事では、彼の誕生からフランシスコ会の設立、晩年、そして列聖までを、物語のようにたどっていきます。
Contents
フランチェスコの父、ピエトロ・ディ・ベルナルドーレは、アッシジでも指折りの裕福な毛織物商でした。商売のため、よくフランスへ渡っていた彼は、そこで運命の人と出会います。名はジョアンナ――後にフランチェスコの母となる女性です。
二人はしばらくフランスで暮らしていましたが、ジョアンナが身ごもったとき、故郷アッシジへと帰ることにしました。
ちなみに、イタリア語で「フランチェスコ」とは「フランス人」という意味。きっと父のフランスへの思い出と誇りが、その名に込められていたのでしょう。
幼いフランチェスコは、母と一緒によく野原で小鳥に話しかけて遊びました。後に〈小鳥に説教するフランチェスコ〉という伝説が語られますが、もしかしたらそれは、子どものころの無邪気なおしゃべりが大人になって形を変えたものなのかもしれません。
やがてフランチェスコは、サン・ジョルジュ教会の付属学校でラテン語を学びます。学業は優秀、そして家は裕福。青年になると、仲間との宴会代を惜しみなく払い、道端の乞食にも気前よく施しをする――そんな快活で人気者の青年でした。
しかし、時代は穏やかではありません。1202年、隣町ペルージャと、そこへ逃れていた貴族たちがアッシジに戦を仕掛けます。フランチェスコも町の若者として戦いに参加しましたが、結果は惨敗。彼はペルージャ軍の捕虜となり、投獄されてしまいました。
フランス出身の母ジョアンナは、息子が命を落とすのではと気が気ではありませんでした。けれど、この時代のイタリアでは捕虜を処刑する習慣はあまりなく、戦の後は和議で解放されるのが通例でした。
一年あまりの囚われの後、フランチェスコはついに故郷アッシジの町へ帰ってきたのです。
1205年、フランチェスコは再び戦へ向かいました。
しかし、アッシジ近郊のスポレートで立ち止まります。「神の声を聞いた」と彼は語り、そのまま引き返したのです。この時、すでに彼の心には〈神のために生きる〉という決意が芽生えていたのかもしれません。
ある日、町の人々が恐れて近づこうともしないハンセン病の患者を見かけました。フランチェスコは勇気を出して近づき、その人を抱きしめ、そっと接吻します。その瞬間、胸の中にあった恐れは不思議と喜びに変わりました。それ以来、彼は病人のもとを訪れ、献身的に世話をするようになります。
やがて、アッシジ郊外のサン・ダミアノの聖堂で祈っていたときのこと。磔にされたキリスト像から、はっきりと声が響きました。
「フランチェスコよ、行って、私の教会を建て直しなさい。」
その言葉を受け、フランチェスコはサン・ダミアノ教会を皮切りに、あちこちの教会の修復に取りかかります。
しかし、ある時、父の留守中に商品を持ち出し、それを売って得たお金をサン・ダミアノの下級司祭に渡しました。帰宅した父ピエトロは激怒します。家業を継がず、商売にも背を向け、自分の道を歩もうとする息子――。二人の対立は深まり、ついにアッシジ司教の前で父子は向き合いました。
その場でフランチェスコは静かに服を脱ぎ、手にしていた衣服を父に差し出します。
「全てをお返しします。」
裸のままの彼は、こう言い残しました。
「これからの私の父は、天におられる父だけです。」
そしてフランチェスコは、その日、家を後にしたのです。
ジョット〈着物を返すフランチェスコ〉
家を出たフランチェスコは、修復したポルツィウンクラの小さな聖堂のそばに身を落ち着けました。後にこの場所は、彼とフランシスコ会にとってかけがえのない拠点となっていきます。
彼の暮らしは質素そのものでした。日々の食事は、肉体労働で得るか、あるいは街を歩いて托鉢(たくはつ)することでまかないます。金銭は決して受け取らず、仲間たちも同じように、お金に触れることさえ避けました。この徹底した姿勢から、彼らは同時代のドミニコ会と並び托鉢修道会と呼ばれるようになったのです。
ある日のこと。ポルツィウンクラの聖堂で行われたミサで、福音書が朗読されました。それは、イエスが弟子たちを各地へ派遣する場面――。
「行って、『神の国は近づいた』と伝えなさい。あなたがたがただで受け取ったものは、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も入れて行ってはならない。旅のための袋も、替えの衣も、履物も杖も持ってはならない。」
その言葉は、フランチェスコの胸に深く響きました。
「裸のキリストに、裸で従おう。」
そう心に決めた彼は、イエスの生き方をそのまま自分の生活に映しとります。
1208年か1209年、フランチェスコは宣教を始めました。使ったのはラテン語ではなく、人々が日常で話すイタリア語。堅苦しい言葉ではなく、誰もが理解できることばで神の愛を伝えたのです。この頃、彼は「神の道化師」と呼ばれることもありました。
当初、彼らは自らを〈アッシジの悔悛(かいしゅん)者〉と名乗っていました。しかし、仲間が増えるにつれ、その呼び名はやがて小さき兄弟団(Ordo Fratrum Minorum)へと変わっていきます。これが現在も続くフランシスコ会の正式名称です。
ジョット〈肩でラテラノ大聖堂を支えるフランチェスコ〉
1210年、小さき兄弟団の仲間は12人にまで増えていました。彼らはローマへ向かい、教皇イノケンティウス3世に謁見して、活動の許可を求めます。
当時、聖職者や修道士は托鉢を禁じられており、司祭の任命を受けていない俗人が説教を行うことも問題視されていました。ですから、彼らの願いは簡単には通らない状況だったのです。
伝えられるところによれば、教皇は最初、汚れた粗末な服をまとった兄弟団を見て不快に感じたと言います。しかし、何度かの謁見を重ねるうちに、彼の心は次第に動かされていきました。
聖人伝によれば、その背景には不思議な夢もあったそうです。教皇は夢の中で、傾きかけたラテラノ聖堂をたった一人で支えている男を見ます。そして目覚めた時、その男こそフランチェスコだと悟った――こうして、正式な文書ではなく口頭でのものでしたが、ついに小さき兄弟団の活動は認められました。
このときフランチェスコは、兄弟団の生活の指針をまとめた文書を教皇に提出しています。今日〈原始会則〉と呼ばれるものですが、この段階ではまだ修道会を設立するつもりはなく、あくまで活動の承認を得るためのものでした。
会則には、一切の所有を拒み、福音を完全に実践するという厳しい内容が記されていました。枢機卿たちは「これでは実行が難しい」と渋い顔を見せます。その空気を変えたのは、ジョバンニ・コロンナ枢機卿の一言でした。
「もしその理由で退けるなら、福音が実践不可能だと宣言することになる。それは、福音をお与えになったキリストを冒涜することになりはしませんか。」
その言葉が会議の空気を一変させ、フランチェスコたちの道は開かれていったのです。
ジョット〈教皇インノケンティウス3世に謁見するフランチェスコの一行〉
ローマから戻ったフランチェスコたちは、まずアッシジ郊外のリボトルトにある小屋で共同生活を始めました。そこで病人の世話をし、肉体労働をこなし、托鉢や説教にも力を注ぎます。
やがて拠点をポルツィウンクラへ移すと、小さな聖堂のまわりに小屋を建てて暮らすようになりました。無所有を貫くフランチェスコは、聖堂の所有者であるベネディクト会から、家賃として毎年「魚かご一杯分」を納めることで、この聖堂を借り受けます。こうしてポルツィウンクラは、兄弟団の心の拠点となっていきました。
仲間が増えると、彼らは二人一組で宣教の旅に出ます。そして毎年の聖霊降臨祭には全員がポルツィウンクラに戻り、大きな総会を開くのが恒例となりました。
1217年には国外への宣教が始まります。最初こそ困難が続きましたが、やがてヨーロッパ各地から入会を希望する人々が押し寄せるようになります。この成長を支えたのが、オスティア大司教ウゴリーノ枢機卿(後の教皇グレゴリウス9世)でした。彼は兄弟団の良き助言者であり、頼れる後見人でもあったのです。
この頃、フランチェスコの周りには数々の逸話が生まれます。鳥たちに向かって語りかけた「小鳥への説教」、人を襲う狼を説得し、二度と噛みつかないと約束させた「グッビオの狼」の物語。そのほかにも、うさぎや魚、水鳥、蝉、コオロギにまつわる心温まる話が残されています。
さらに、この時期には女性の仲間も現れました。アッシジの名家に生まれた娘キアラ(クララ)は、フランチェスコの教えに深く感銘を受け、1212年の「枝の主日(復活祭の一週間前の日曜日)」の夜、もう一人の女性と共に家を出ます。
フランチェスコによる剃髪を受けた彼女は、近くの女子修道院に身を寄せ、清貧の生活を送りながら手仕事で生計を立て、病人や弱い立場の人々に奉仕しました。このキアラの歩みは、後に「クララ会」と呼ばれるフランシスコ会第二会(女子修道会)として受け継がれていきます。
シモーネ・マルティーニ〈アッシジのキアラ〉
>>今日の聖人は聖クララ(キアラ)
フランチェスコは、キリストの教えをイスラーム世界にも伝えたいと強く願っていました。
最初の挑戦は1209年から1212年。船に乗ってシリアを目指しましたが、途中で嵐に遭い、船は難破。ダルマチア沿岸に漂着し、この試みは断念せざるを得ませんでした。
続く1212年から1214年には、殉教をも覚悟してモロッコを目指します。しかし、スペインに着いたところで病に倒れ、再び引き返すことになります。
そして1219年。ついに彼は、第5次十字軍が駐留するエジプトへ渡ることに成功します。まず、十字軍が包囲していたダミエッタの町の前に立ち、戦いをやめるよう呼びかけました。しかし、耳を貸さない十字軍の姿に深い失望を覚えます。
それでもフランチェスコは諦めませんでした。仲間を一人だけ連れ、ただ二人きりでイスラーム陣営へと歩み入り、スルタン・メレク・アル=カーミルとの会見に臨みます。そして真正面からキリスト教への改宗を勧めたのです。
スルタンは改宗には応じませんでしたが、フランチェスコを丁重にもてなしました。この席で彼はイスラーム法学者との信仰対決を望み、驚くべき提案をします。
――燃え盛る炎の中に飛び込み、どちらに神の加護があるかを競おう。
この火の試みは長く伝説とされ、近代以降は史実ではないと考えられてきました。しかし、カイロに残るある墓碑銘には、同時期にイスラーム法学者とキリスト教修道士が有名な試みを行ったと記されており、この話も近年は再評価されつつあります。
やがてスルタンの手で十字軍陣営へ送り届けられたフランチェスコは、その後エルサレムなど聖地を巡礼します。ところが、イタリアから緊急の知らせを携えた使者が到着し、急ぎ帰国の途につくことになりました。
ジョット〈スルタンの前に立つフランチェスコ〉
フランチェスコがイスラーム世界に渡っていた間、兄弟団の中では厳しい規律をゆるめようとする動きが広がっていました。それは彼にとって、到底受け入れがたい変化でした。
帰国したフランチェスコは、ボローニャの兄弟たちが寄進された立派な建物に住みつき、学問に打ち込んでいると聞きます。当時、書物は非常に高価なものであり、学究生活は清貧と宣教の精神に反すると考えていたフランチェスコは、激しい怒りをあらわにしました。彼は呪いの言葉まで吐き、病人を含む全員に建物を出るよう命じます。
さらに、ポルツィウンクラに戻ると、そこにはアッシジ市が寄贈した建物が建っていました。フランチェスコはすぐに屋根へ上り、瓦を剥がし始めます。止めようとする者も多かったのですが、最終的には市の役人がこう説得しました。
「これは寄進ではなく貸与です。所有権はアッシジ市にあります。どうか壊さないでください。」
当時、兄弟団は国境を越えて仲間を増やし、組織としての整備が必要になっていました。その円滑な運営のためには、フランチェスコが求める清貧や奉仕の規律は、あまりにも厳しすぎる――そう感じる者が少なくなかったのです。
中でも、ハンセン病患者の世話など、日々の負担が大きい務めは一部の仲間から緩和を求められていました。こうした意見の食い違いは、フランチェスコの死後、穏健派と厳格派の対立へと発展していきます。その萌芽は、すでにこの頃にあったのです。
規律の緩和について、フランチェスコはどうしても譲ることができませんでした。けれども、事態は行き詰まり、兄弟団の中で孤立感も深まっていきます。
そんな時、彼は一つの夢を見ます。――雛が多すぎて、翼の下に入れきれない雌鶏の夢です。目覚めたとき、フランチェスコは悟りました。兄弟団は、自分の手に負えないほど大きくなってしまったのだと。
1220年、彼は総長職を古くからの同志カッターニに譲ります。それでも精神的指導者であり続けましたが、表舞台からは退き、静かな隠遁生活へと身を移していきました。
ジョット〈聖痕を受けるフランチェスコ〉
1223年のクリスマス。アッシジの貴族ジョバンニからの招きで、フランチェスコはグレッチオの山中に滞在していました。そこで彼は、聖書に描かれたベツレヘムの情景を再現しようと考えます。厩舎や飼葉桶を設け、雄牛やロバを連れてきて、そこでミサを行ったのです。
ミサの最中、フランチェスコが赤ん坊を抱き上げる姿をはっきりと見たと証言する者もいました。この出来事は参列者の心に深く刻まれ、やがて世界中のカトリック教会で、クリスマスに厩舎の模型を飾る習慣として受け継がれていきます。
翌1224年、フランチェスコはラヴェルナ山で六翼の天使に出会い、キリストの受難と同じ五つの傷――両手、両足、脇腹――をその身に受けました。これが聖痕です。キリスト教史上、記録に残る最初の聖痕であり、しかも数少ない男性の事例でした。それは、徹底してキリストに倣おうとする彼の精神の高さを象徴する出来事として、奇跡とみなされました。
聖痕を負った後も、フランチェスコは各地を回りましたが、次第に体は衰えていきます。激しい頭痛と視力の低下に苦しみ、サン・ダミアノ教会でキアラの看病を受けながら、代表作『太陽の賛歌(あらゆる被造物の賛歌)』を作ったと伝えられます。
その後、総長職にあったエリアの勧めで教皇の医師団に診てもらいますが、病は癒えません。死期を悟った彼は、滞在していたシエナ、そしてチェッレで遺言を口述し、活動の原点であるポルツィウンクラへの帰還を願いました。
当時、すでに聖人としての評判が高まっていたため、彼の亡骸を自らの地に迎えたいと願う都市も少なくありませんでした。その思惑を避けるため、アッシジから軍隊が派遣され、フランチェスコは護送されて故郷へ戻ります。
晩年の日々をアッシジの司教館で過ごした後、彼はついにポルツィウンクラへ運ばれます。市民たちが警護する中、1226年10月3日、フランチェスコは息を引き取りました。
その最期は静かで、荘厳なものでした。仲間たちが『太陽の賛歌』を歌い、『ヨハネ福音書』の受難の章を朗読する中、彼は地面に敷いた粗末な苦行衣の上に裸で横たわり、天の父のもとへ帰っていったのです。
ジョット〈フランチェスコの死〉
フランチェスコが亡くなってから、わずか2年も経たない1228年7月。教皇グレゴリウス9世は、彼を聖人に列することを宣言しました。これほど早い列聖は異例のことです。
グレゴリウス9世は、かつてウゴリーノ枢機卿としてフランチェスコを庇護し、たびたび助言を与えてきた人物でした。彼にとって、この決定は友情と敬愛の証でもあったのでしょう。
1230年には、古くからの仲間エリアの指揮によって、壮麗なサン=フランシスコ大聖堂が完成します。フランチェスコの遺骸は、この大聖堂の地下へと厳かに移されました。そこは、今も世界中から巡礼者が訪れる祈りの地となっています。
〈アッシジの聖フランチェスコ聖堂〉
聖フランチェスコの人生は、物質的な豊かさを捨て、愛と奉仕にすべてを捧げた道のりでした。
動物や自然への深い愛情、清貧を貫く姿勢、そして仲間と築いた小さき兄弟団。そのすべてが、彼をキリスト教史上まれに見る聖人へと押し上げました。
彼の教えと生き方は、800年以上たった今も、世界中の人々に影響を与え続けています。
私たちもまた、日常の中でほんの少しでも「清く、貧しく、愛深く」生きるヒントを、フランチェスコの物語から見つけられるのではないでしょうか。