10月6日は、カトリック教会で「聖ブルーノ司祭」を記念する日です。
ブルーノは、司教や学者としての道を歩みながらも、それを捨てて祈りと沈黙の中へ入った人物です。その選択は、今日を生きる私たちにとっても問いを含んでいます。
では、まずはこの人がどのような道を歩んだかを見てみましょう。
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ブルーノはケルンの貴族の家に生まれ、若い頃にレンス(Reims、フランス地方)で学びました。学びを終えた後、ケルンで司祭・司教座に関わる仕事をしたり、レンスに呼ばれて教育と教区の仕事にも従事しました。
1055年ごろには司教座聖堂参事会員(司教の側近としての立場)になり、神学を講じたり、教区の教育政策にも関わったと伝えられています。
1075年には、大司教マナセ(Manasses de Gournai)がレンスの教区責任者となりますが、マナセが教会の職位を金銭で得た(シモニア:教職の売買)疑惑が浮上します。ブルーノはその事実を告発し、これに反発したマナセにより免職されることになります。
教会改革の流れの中で、教皇側はマナセの不正を問題視し、マナセを破門する動きもありました。さらに、後任の司教としてブルーノを迎えたいという働きもありましたが、ブルーノはこれを辞退します。
その後、ブルーノは世俗の職務から離れ、「祈りと沈黙、清貧」を志向する道へと足を踏み入れます。
1084年には、6人の同志とともにシャルトルーズの地に入り、厳しい修道生活を始めます。これがシャルトルーズ会の始まりとされています。
この会の特色は、共同生活と隠者性を融合させた形で、祈り・労働・学問を重んじる生き方です。外界との関わりは最小限としながら、神との親しみを深めることを目的としています。
その後、教皇ウルバヌス2世(彼のかつての教え子)からの招きがあってローマに出向いたこともありますが、教界の騒乱や権力争いなどを避けるため、南イタリアへ移ります。
カラブリア地方、特に「ラ・トレ(La Torre)」と呼ばれた荒野の地を拠点に、第二の修道院を築き、そこでも厳しい隠修生活を送りつつ、シャルトルーズの仲間たちへ手紙を送って励ましたと言われます。
ブルーノは、1101年10月6日、その地で亡くなりました。彼の死後、彼を慕う修道者たちによってその思いと運動は引き継がれ、後にシャルトルーズ会は正式に認可され、長い歴史を持つ修道会のひとつとなります。
なお、興味深いことに、ブルーノは正式な典礼的な列聖はなされなかったとされます。1590〜1600年ごろ以降、修道会は彼の記念を祝うことを認められ、後に教会全体でも祝われるようになりました。
ブルーノ自身の確実な「名言」として残されているものは、極端に少ないのが現状です。ただし、彼の手紙や遺された文章から、彼が重視した思想や祈りの志向が伝わってきます。
たとえば、彼の手紙には次のような言葉が含まれています(邦訳意訳):
「沈黙と孤独がもたらすものは、神との親しみと愛である。
ここで人は自己を知り、神を仰ぎ見ることを学ぶ。」
この言葉は、ブルーノの隠遁志向を語る後世の翻訳・編纂から伝えられるものです。
この言葉が示す背景と意味は次の通りです。
ブルーノの人生そのものが、言葉というより行動での「証し」であったとも言えるでしょう。
ブルーノの生涯を通して、以下のような信仰上のポイントが見えてきます。
こうしたテーマは、今日の信仰生活や霊性の探求にも深く響きます。たとえば、忙しさや雑音に追われる現代において、沈黙や祈りの時間を確保すること、清らかな心を保つこと、共同体の支えを大切にすることなどは、ブルーノの生き方が今に語る課題です。
聖ブルーノ司祭は、知識と地位を得得た後、それをすべて手放して祈りと沈黙の道を選んだ人物です。
教界の腐敗や権力の誘惑に抗して、良心を守る生き方を選び、荒野での厳しい修道生活を通して、シャルトルーズ会を創立しました。彼の歩んだ道は、沈黙や清貧、祈りの価値を静かに語ります。
私たちも、日々の忙しさや雑音の中で、少し立ち止まり、神の声に耳を澄ませる時間をもつこと、信仰に忠実であること、そしてひそかでも献身を生きることの大切さを、この聖人から学ぶことができます。