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福者ヨハネ・バプチスタ(マカド)と聖ペトロ(被昇天)司祭殉教者

5月23日は、カトリック教会で「福者ヨハネ・バプチスタ(マカド)と聖ペトロ(被昇天)司祭殉教者」を記念する日です。

2人は、江戸時代初めの日本で、キリスト教への迫害が強まる中、信徒たちを支えた宣教師でした。

ヨハネ・バプチスタ・マカドはポルトガル系のイエズス会司祭、ペトロ(被昇天)はスペイン出身のフランシスコ会司祭です。

修道会は違いましたが、どちらも1609年に日本へ来て、禁教令のもとで危険を承知しながら信徒を支えました。

彼らの生涯は、信仰を守るとは何か、また困難の中で人を支えるとはどういうことかを、静かに問いかけてくれます。

福者ヨハネ・バプチスタとペトロ|プロフィール

  • 名前
    ヨハネ・バプチスタ・マカド/John Baptist Machado、João Baptista Machado de Távora
    ペトロ(被昇天)/Peter of the Assumption、Pedro de la Asunción
  • 生没年
    ヨハネ・バプチスタ・マカド:1581〜1617年
    ペトロ(被昇天):生年は資料により差がありますが、17世紀初めに日本で殉教しました。
  • 出身地・時代背景
    ヨハネはポルトガルに属したアゾレス諸島の出身、ペトロはスペイン出身と伝えられます。2人が来日したころの日本では、徳川家康の時代にキリスト教への警戒が強まり、1614年には全国的な禁教令が出されました。
  • 肩書き・役職
    ヨハネはイエズス会司祭、ペトロはフランシスコ会司祭です。日本のキリシタン迫害時代に信徒を支えた司祭殉教者として記念されています。

福者ヨハネ・バプチスタとペトロの生涯

2人は別々の国、別々の修道会に生まれました。ヨハネはイエズス会、ペトロはフランシスコ会に属していました。

しかし、2人は同じ1609年に日本へ来て、同じ迫害の時代を生き、最後は大村でともに殉教しました。修道会は違っても、日本の信徒を支えたいという思いは同じでした。

日本の殉教者に心を動かされたヨハネ

ヨハネ・バプチスタ・マカドは、ポルトガルの貴族の家に生まれたと伝えられています。

彼が11歳のころ、日本で信仰のために命をささげた殉教者の話を聞き、大きな感動を受けました。幼い心に、日本の教会と殉教者の姿が深く刻まれたのです。

やがてヨハネはイエズス会に入り、司祭となりました。そして1609年、日本へ派遣されます。

当時の日本は、すでにキリスト教に対する圧力が強くなっていました。宣教師として来日することは、名誉ある旅というよりも、命をかけた道でした。

それでもヨハネは、日本の信徒のために働きました。禁教令が出された後も、日本に残ることを選びます。

長崎で宣教したフランシスコ会司祭ペトロ

ペトロ(被昇天)は、スペインに生まれ、フランシスコ会に入りました。

彼もまた1609年に日本へ来て、長崎にあるフランシスコ会の修道院長として宣教に務めたと伝えられています。

長崎は、当時の日本のキリシタンにとって重要な地でした。信徒たちは宣教師の助けを必要としていましたが、同時に宣教師をかくまうことは大きな危険をともなう時代でした。

ペトロはそのような中で、信徒のそばに立ち続けました。彼の働きは、大きな声で自分を示すものではなく、迫害の中で信仰を守る人びとを静かに支えるものでした。

禁教令の中で捕らえられ、殉教へ

1614年、徳川幕府はキリスト教の禁教令を出しました。宣教師たちには国外退去が命じられ、多くの教会や修道院の活動ができなくなりました。

しかし、すべての宣教師が日本を離れたわけではありません。ヨハネやペトロのように、危険を承知で信徒のために残った人びともいました。

やがて2人は捕らえられ、投獄されました。資料によると、2人は同じ場所にとどめられ、そこでミサをささげることを許された時期もあったと伝えられています。

そして1617年5月22日、2人は大村で首をはねられて殉教しました。イエズス会司祭とフランシスコ会司祭が、同じ日本の地で、同じ信仰のために命をささげたのです。

日本語の聖人カレンダーでは、5月23日の記念として紹介されています。

2人の死は、教会にとって大きな痛みでした。しかし、その証しは信徒たちを恐れさせるだけではありませんでした。かえって信仰を強め、キリストに従う勇気を呼び起こしました。

福者ヨハネ・バプチスタとペトロの名言・エピソードから学ぶ

2人について、本人の言葉として確実に広く確認できる名言は多くありません。そのため、この記事では出典のはっきりしない言葉を名言として紹介することは避けます。

かわりに大切にしたいのは、彼らの日本に残る選択です。

禁教令によって外国人宣教師は追放される危険にさらされました。日本に残れば、捕らえられ、命を失う可能性がありました。

それでも彼らは、信徒たちを完全に置き去りにすることを選びませんでした。信仰の指導者として、ミサをささげ、祈り、秘跡を届け、人びとを励まそうとしたのです。

ここから学べるのは、愛とは、危険がない時だけ人のそばにいることではない、ということです。

本当に人を愛する時、私たちは時に、自分にとって楽ではない場所にとどまることがあります。ヨハネとペトロの姿は、牧者としての責任と、信仰に根ざした勇気を教えてくれます。

カトリック的ポイント解説

この2人の殉教者を理解するうえで大切なのは、殉教宣教です。

殉教とは、信仰のために命をささげることです。ただし、カトリックにおいて殉教は、死そのものを求めることではありません。

殉教者は、神への信頼を捨てず、ゆだねられた人びとへの愛を最後まで失わなかった人です。

ヨハネとペトロは、ただ自分の信仰を守っただけではありません。司祭として、日本の信徒たちを支えようとしました。

司祭は、ミサをささげ、秘跡を通してキリストの恵みを届ける使命を持っています。迫害の中でその働きを続けることは、とても大きな危険でした。

それでも2人は、神の民を支えるためにとどまりました。ここに、牧者としての深い愛があります。

現代の私たちは、彼らのような迫害を受けていないかもしれません。それでも、信仰を公にすること、困っている人の味方でいること、孤独な人を見捨てないことには勇気が必要です。

2人の殉教者は、信仰がただ心の中の思いではなく、人のために生きる力であることを教えてくれます。

福者ヨハネ・バプチスタとペトロ|ゆかりの地・書籍・芸術

2人のゆかりの地として大切なのは、長崎大村です。タイトルにも入れた大村は、2人の殉教地として特に重要です。

長崎は、日本のキリシタン史において中心的な場所のひとつでした。多くの宣教師と信徒がこの地で祈り、信仰を守り、また迫害を受けました。

大村は、2人が殉教した地として伝えられています。キリシタン史の中で、大村周辺は多くの信仰者の証しが刻まれた場所でもあります。

また、ヨハネ・バプチスタ・マカドは、1867年に教皇ピオ9世によって、他の日本の殉教者たちとともに列福されたとされます。英語資料では、ヨハネもペトロも日本の205殉教者の流れの中で紹介されることがあります。

芸術作品としては、2人だけを広く知られた単独の名画で見る機会は多くありません。しかし、日本の殉教者を描く聖画像では、宣教師、司祭、信徒がともに描かれ、十字架や殉教のしるしとともに表されることがあります。

この2人を思う時には、華やかな英雄像よりも、暗い時代に小さな信徒共同体を守ろうとした司祭の姿を思い浮かべるとよいでしょう。

まとめ|今日の聖人から学べること

福者ヨハネ・バプチスタ・マカドとペトロ(被昇天)は、禁教下の日本で信徒を支えた司祭殉教者です。

ヨハネはポルトガル系のイエズス会司祭、ペトロはスペイン出身のフランシスコ会司祭として、どちらも1609年に来日しました。

修道会は違っても、迫害の中にいた日本の信徒を見捨てず、宣教と祈りの務めを続けました。

捕らえられ、投獄され、ついには大村で命をささげます。彼らの姿は、信仰とは自分だけの安心ではなく、苦しむ人のそばにとどまる愛であることを教えてくれます。