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聖ヨハネ・フィッシャー司教殉教者

6月22日は、カトリック教会で「聖ヨハネ・フィッシャー司教殉教者」を記念する日です。

聖ヨハネ・フィッシャーは、ケンブリッジ大学総長からロチェスター司教となり、最後はヘンリー8世に反対して処刑された聖人です。

学者であり司教であり、そして良心を守った殉教者として記憶されています。

聖ヨハネ・フィッシャー|プロフィール

  • 名前
    ヨハネ・フィッシャー/John Fisher
  • 生没年
    1469〜1535年
  • 出身地・時代背景
    イングランドのヨークシャー、ビヴァリーに生まれました。16世紀前半、ヘンリー8世のもとでイングランド教会が大きく揺れた時代に生きました。
  • 肩書き・役職
    司祭、神学者、ケンブリッジ大学総長、ロチェスター司教、殉教者。

聖ヨハネ・フィッシャーの生涯

聖ヨハネ・フィッシャーは、イングランドのビヴァリーに生まれました。

若いころから学問にすぐれ、後にケンブリッジ大学で大きな役割を果たすようになります。

ケンブリッジ大学で学び、総長となる

フィッシャーはケンブリッジ大学で学び、司祭となった後は母校で神学を教えました。

1504年には同大学の総長となり、大学の発展に大きく尽くします。

彼は学問を深く愛し、古典学と神学の両方に通じた人物でした。

また、人文学者エラスムスとも親しい関係にあり、その学識は広く知られていました。

ロチェスター司教となり、宮中にも仕える

その人望と学識によって、フィッシャーはヘンリー7世からロチェスター司教に任命されます。

さらに宮中の顧問としても重んじられました。

彼は、学者としてだけでなく、教会と国王の双方に仕える司教として歩み始めます。

ヘンリー8世の離婚問題に反対する

次の王ヘンリー8世は、当初は信仰深い王と見られていました。

しかし、王妃キャサリンとの離婚問題をきっかけに、事態は大きく変わります。

ヘンリー8世は教皇の権威を退け、自らをイングランド教会の長としようとしました。

フィッシャーは、これに反対しました。

彼にとって、教会の頭は王ではなく、教皇とともに守られるべきカトリックの秩序でした。

良心を守って捕らえられる

王の政策に反対したことで、フィッシャーはしだいに孤立します。

やがて捕らえられ、ロンドン塔に入れられました。

1535年5月には教皇パウロ3世によって枢機卿に任命されましたが、それは彼を救うことにはなりませんでした。

むしろヘンリー8世をさらに怒らせたと伝えられています。

1535年、処刑されて殉教する

1535年6月22日、フィッシャーは反逆罪で有罪とされ、処刑されました。

彼が残したと伝えられる言葉、

「わたしは誰の良心も非難しない。彼らの良心は彼らを救うであろう。そしてわたしの良心はわたしを救わなければならない」

は、この聖人の姿をよく表しています。

彼は他人を裁くことよりも、自分の良心の前に忠実であろうとしました。

そのため、カトリック教会では、良心と信仰のために命をささげた殉教者として深く敬われています。

聖ヨハネ・フィッシャーの名言・エピソードから学ぶ

フィッシャーをよく表しているのは、処刑前に語ったと伝えられる良心についての言葉です。

彼は、相手を激しく断罪するのではなく、自分の良心に忠実であることを選びました。

この姿は、信仰は外からの強制で変えられるものではなく、良心の深いところで神に従うことだと教えてくれます。

カトリック的ポイント解説

聖ヨハネ・フィッシャーの生涯で大切なのは、教会の一致良心の自由 です。

カトリック信仰では、教会は国家権力の都合で作り替えられるものではありません。

フィッシャーは、王の命令よりも教会の信仰と秩序を優先しました。

その姿は、真理に従うことが時に大きな犠牲を伴っても、信仰者には譲れないものがあることを示しています。

聖ヨハネ・フィッシャー|ゆかりの地・書籍・芸術

聖ヨハネ・フィッシャーのゆかりの地として大切なのは、ビヴァリーケンブリッジロチェスター、そしてロンドンです。

芸術では、司教の装い、書物、十字架、あるいは処刑前の姿で描かれることがあります。

学者としての姿と、殉教者としての姿の両方をあわせ持つ聖人です。

まとめ|今日の聖人から学べること

聖ヨハネ・フィッシャーは、ケンブリッジ大学総長、ロチェスター司教として生き、ヘンリー8世の教会首長宣言に反対して1535年に処刑された聖人です。

学識ある司教でありながら、最後には良心を守るために命をささげました。

聖ヨハネ・フィッシャーは、権力よりも真理と良心に従う信仰を教えてくれます。