
7月9日は、カトリック教会で「聖アウグスティヌス・チャオ・ロン司祭と同志殉教者」を記念する日です。
この記念日は、一人の聖人だけではなく、17世紀から20世紀にかけて中国で命をささげた120人の殉教者たちを思い起こす日です。
兵士から司祭になったチャオ・ロン、中国で生まれ育った多くの信徒たち、そして外国から来た宣教師たちが、文化や民族の違いを越えて、一つの信仰のきずなで結ばれていました。
聖アウグスティヌス・チャオ・ロン司祭と同志殉教者|プロフィール
- 名前
アウグスティヌス・チャオ・ロン司祭と同志殉教者/Augustine Zhao Rong and Companions - 時代
1648年〜1930年にかけて殉教 - 人数
120人 - 内訳
87人は中国人、33人は外国人宣教師・修道者たちです。 - 特徴
子ども、両親、カテキスタ、労働者、教区司祭、修道女、宣教師など、多様な立場の人びとが含まれます。
アウグスティヌス・チャオ・ロンと同志殉教者の歩み
この120人の殉教者たちは、同じ年に一度に亡くなった人びとではありません。
1648年から1930年まで、長い時代の中で中国各地に起きた迫害の中で殉教した人びとです。
中国人87人、外国人33人からなる殉教者たち
120人のうち、87人は中国で生まれた中国人でした。
子ども、両親、カテキスタ、労働者、教区司祭などが含まれ、年齢は9歳から72歳に及びます。
一方、33人は外国人で、ドミニコ会、パリ・ミッション会、フランシスコ会、イエズス会、サレジオ会の司祭や、マリアの宣教者フランシスコ修道会の修道女たちでした。
ここが、この記念日の大きな特徴です。
中国の教会は、外国人宣教師だけで成り立っていたのではなく、中国人信徒自身が自分の信仰としてキリストに従い、そのために命をささげた共同体だったのです。
アウグスティヌス・チャオ・ロンは兵士から司祭になった
この120人の中で、代表的人物がアウグスティヌス・チャオ・ロンです。
彼はもともと兵士でした。
パリ・ミッション会のジョン・ガブリエル・タウリン・デュフレース司教が殉教する際、その護送に同行したと伝えられています。
ところが、デュフレース司教の忍耐に心を打たれ、チャオ・ロンは自らもキリストに従うことを望むようになりました。
そして洗礼を受け、のちに神学校へ進み、司祭に叙階されます。
この歩みはとても印象的です。
かつて迫害する側に近かった兵士が、殉教者の姿に触れて、自分自身も司祭となったのです。
1815年、チャオ・ロンも殉教する
司祭となったチャオ・ロンも、やがて1815年に捕らえられ、激しい拷問を受けて殉教しました。
彼の生涯は、キリスト教信仰が単なる外国の思想ではなく、人の心を内側から変え、人生そのものを新しくする力を持っていたことを示しています。
なぜ中国でも殉教が起きたのか
ここは、本文で特にわかりやすくしておきたい点です。
中国で殉教が起きた理由は、単純に「キリスト教が悪い宗教だと思われたから」だけではありません。
背景には、いくつかの大きな事情が重なっていました。
第一に、キリスト教は中国にとって外から来た宗教であり、外国の宣教師と結びついて見られやすかったことです。
そのため、信仰そのものへの反感だけでなく、外国勢力への警戒心や不信感も、キリスト教徒への敵意に結びつきました。
第二に、中国の社会や政治が不安定になると、人びとは外から来た思想や新しい集団を危険なものと見やすくなりました。
キリスト教徒は、地域によっては伝統的な習慣と違う生き方をしていると見なされ、共同体から浮いて見えることもありました。
第三に、19世紀末には欧米列強が中国に強い圧力をかけていました。
このため、中国人の中には、キリスト教を単なる宗教ではなく、外国支配と結びついたものとして受け取る人も少なくありませんでした。
つまり中国での殉教は、信仰への拒絶だけでなく、政治、外国への反感、社会不安が重なった中で起きたのです。
だからこそ、この120人の殉教者を理解するには、「外国人宣教師が殺された話」ではなく、中国人信徒自身もまた、その信仰のために命を失った事実を見ることが大切です。
義和団の乱の中で多くの殉教者が出る
中国での迫害を語るとき、特に大きいのが1898年から1900年にかけて起きた義和団の乱です。
これは、欧米列強に対する抵抗運動として広がり、その中でキリスト教が強く排斥されていきました。
120人のうちの多くが、この時期に信仰を守るために命をささげました。
ここでも大切なのは、彼らが単なる政治の犠牲者ではなかったということです。
確かに時代の政治状況は大きく影響しました。
けれども、最後に命を奪われた理由は、彼らがキリストへの信仰を捨てなかったからでした。
文化や民族を越えて一つの家族として殉教した
この120人について資料が特に強調するのは、彼らがキリストへの信仰という深いきずなによって結ばれていたことです。
中国人信徒と外国人宣教師たちは、文化も民族も違っていました。
それでも彼らは、政治的な動機ではなく、兄弟愛、平和、正義のために、キリストに従う者として共に死んでいきました。
ここに、この記念日の美しさがあります。
国や文化の違いが消えたのではなく、それを越えて一つの教会として生きたのです。
2000年に120人が列聖される
列福は数回にわたって行われましたが、2000年10月1日、教皇ヨハネ・パウロ2世によって120人が列聖されました。
これによって、中国での長い迫害の歴史の中で命をささげた人びとが、教会全体の聖人として広く記憶されることになりました。
聖アウグスティヌス・チャオ・ロン司祭と同志殉教者の名言・エピソードから学ぶ
この記念日では、一人の名言よりも、120人の生き方そのものがメッセージになっています。
特に印象深いのは、兵士だったチャオ・ロンが殉教者の忍耐に心を打たれ、自らもキリストに従ったことです。
また、多くの中国人信徒が、自分たちの信仰としてキリストを選び取ったことも、この記念日の大切な点です。
カトリック的ポイント解説
この120殉教者の生涯で大切なのは、普遍性と忠実さです。
カトリック教会は、民族や文化を越えて一つの教会であると考えます。
この120人は、そのことを血によって証ししました。
また、中国での殉教の背景には政治や社会不安がありましたが、それでも彼らは信仰を捨てませんでした。
つまり彼らの殉教は、歴史の複雑さの中でも、最後にキリストへの忠実さを選んだ証しなのです。
聖アウグスティヌス・チャオ・ロン司祭と同志殉教者|ゆかりの地・書籍・芸術
この記念日のゆかりの地は、中国各地です。
特定の一か所ではなく、17世紀から20世紀にかけて中国の広い地域で信仰の証しが行われました。
芸術では、中国人信徒と外国人宣教師がともに描かれたり、殉教の群像として表されたりすることがあります。
まとめ|今日の聖人から学べること
聖アウグスティヌス・チャオ・ロン司祭と同志殉教者は、1648年から1930年にかけて中国で殉教した120人です。
中国人87人と外国人33人からなり、兵士から司祭となったチャオ・ロンや、義和団の乱の中で信仰を守った多くの信徒と宣教師が含まれます。
中国で殉教が起きた背景には、外国宗教への警戒、列強への反感、社会不安、そしてキリスト教徒への排斥が重なっていました。
それでも彼らは、文化や民族の違いを越えて、キリストへの信仰を一つのきずなとして生き、命をささげました。
聖アウグスティヌス・チャオ・ロン司祭と同志殉教者は、教会が本当に世界のすべての民の家族であることを教えてくれます。
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