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聖ナザリオと聖チェルソ

7月28日は、カトリック教会で「聖ナザリオと聖チェルソ」を記念する日です。

二人は、初期のキリスト教時代にミラノで殉教したと伝えられています。後世の聖人伝では、ナザリオが少年チェルソに洗礼を授け、師弟として各地を宣教したとされています。

ただし、二人がいつ生きていたのか、どのような活動をしたのかについては、歴史的に確認できない部分も少なくありません。

それでも、4世紀末にミラノの司教・聖アンブロジオが二人の遺体を発見したという記録は、今も二人の信仰を伝える大切な証しとなっています。

聖ナザリオと聖チェルソ|プロフィール

聖ナザリオと聖チェルソについて、史料から確認できる内容と後世の伝承を分けて紹介します。

  • 名前
    聖ナザリオと聖チェルソ/Saints Nazarius and Celsus
  • 生没年
    不詳
    後世の伝承では1世紀の殉教者とされていますが、提供資料では2〜4世紀頃ともされており、正確な殉教年代は確認されていません。
  • 出身地・時代背景
    伝承では、ナザリオはローマ出身、チェルソはガリア地方、現在のフランス周辺の出身とされています。キリスト教徒がローマ帝国から迫害を受けていた時代の人物です。
  • 肩書き・役職
    宣教者、キリスト教殉教者
    チェルソはナザリオから洗礼を受けた少年の弟子と伝えられています。

聖ナザリオと聖チェルソの生涯

二人の生涯には、歴史的に確認できる事実と、何世紀も後にまとめられた聖人伝の物語が含まれています。

両者を区別しながら読むことで、初期のキリスト者が二人をどのような聖人として記憶してきたのかが見えてきます。

史実として確認できるミラノでの殉教

聖ナザリオと聖チェルソについて確実に確認できるのは、二人がミラノの殉教者として古くから記憶されていたことです。

聖アンブロジオの伝記を書いたパウリヌスによると、アンブロジオは395年頃、ミラノの城壁の外にあった庭でナザリオの遺体を発見しました。

ナザリオの首は切り落とされており、遺体には血の跡が残っていたと記されています。

同じ庭からはチェルソの遺体も発見され、二人の遺体はアンブロジオの指示によって聖使徒大聖堂へ移されました。

この遺体の発見が、二人について残されている最も古く、重要な歴史的記録です。

伝承ではガリアで少年チェルソと出会う

後世に書かれた聖人伝では、ナザリオはローマでキリスト教の信仰を持ち、迫害の危険を避けながら各地で福音を伝えたとされています。

ローマを離れてガリア地方へ向かったナザリオは、そこでキリスト者の女性から、チェルソという少年の教育を任されました。

ナザリオはチェルソにキリスト教の教えを伝え、洗礼を授けたといわれています。チェルソはその後、ナザリオの弟子となり、宣教の旅に同行しました。

二人はガリアから現在のドイツにあるトリーアまで旅をし、各地でキリスト教を伝えたという物語も残されています。

ただし、これらの旅や宣教活動は後世の聖人伝に基づくものであり、歴史的な事実として確認されているわけではありません。

ミラノで捕らえられ、ともに処刑されたという伝承

伝承によると、ナザリオとチェルソは宣教を続けた後、再びミラノへ戻りました。

しかし、二人はそこで捕らえられ、キリストへの信仰を捨てるように命じられます。二人がそれを拒んだため、最後には首を切られて処刑されたと伝えられています。

ナザリオは大人の宣教者であり、チェルソはその教えを受けた若い弟子でした。

年齢も立場も異なる二人が、同じ信仰によって結ばれ、最後まで歩みをともにしたことが、この聖人伝の大きな特徴です。

「ナザリオの妻」という記述について

提供資料には、ナザリオが妻とともに宣教したという記述があります。

しかし、確認できた主要なカトリック資料や古い記録には、ナザリオの妻についての記述が見つかりませんでした。

後世の伝承に登場するのは、ナザリオの母とされるペルペトゥアです。そのため、ナザリオが妻とともに宣教したという点については、事実として断定することができません。

聖堂に遺体が移され、名前が残される

聖アンブロジオによって発見された二人の遺体は、ミラノにあった聖使徒大聖堂へ移されました。

この聖堂は、もともと使徒たちの記念のためにアンブロジオが建てた教会でしたが、ナザリオの遺体が安置された後、次第にサン・ナザロ・マッジョーレ聖堂と呼ばれるようになりました。

一人の殉教者の名前が、1600年以上たった現在もミラノの教会に残されているのです。

また、ミラノにはチェルソの名前を受け継ぐ聖堂もあり、二人に対する信仰が長く受け継がれてきたことがわかります。

聖ナザリオと聖チェルソの名言・エピソードから学ぶ

聖ナザリオと聖チェルソ自身が語ったと確認できる言葉は、現在まで残されていません。

そのため、出典のわからない言葉を二人の「名言」として紹介することはできません。

ミラノ教区の典礼では、二人について次のような祈りがささげられています。

「ナザリオとチェルソを兄弟のように結ぶ、一つの栄光の冠」

ここでいう「一つの栄光の冠」とは、二人が血のつながった兄弟だったという意味ではありません。

年齢も生い立ちも異なる二人が、キリストへの信仰と殉教によって一つに結ばれたことを表しています。

私たちも、年齢や立場の違いを越えて、同じ信仰を持つ人と支え合うことができます。ナザリオとチェルソの物語は、信仰は一人だけで守るものではないと教えてくれます。

カトリック的ポイント解説

聖ナザリオと聖チェルソの物語からは、殉教、洗礼、聖人の遺体という三つの大切なテーマを読み取ることができます。

殉教とは、信仰のために死を選ぶことではない

カトリック教会の『カテキズム』は、殉教は信仰の真理に対する最高の証しであると説明しています。

殉教者は、自ら死を求めた人ではありません。命を脅かされてもキリストとの関係を否定せず、最後まで信仰に忠実であろうとした人です。

聖ナザリオと聖チェルソも、キリストを信じているという理由で命を奪われた殉教者として、教会の中で記憶されてきました。

信仰を次の世代へ手渡す

伝承の中で、ナザリオは少年チェルソに教えを伝え、洗礼を授けています。

そしてチェルソは、教えを受けるだけでなく、ナザリオと一緒に福音を伝える人になりました。

この姿は、信仰が親から子へ、教師から生徒へ、先輩から後輩へと受け継がれていくことを表しています。

現代の私たちにとっても、難しい言葉で教えるだけでなく、日々の生き方を通して信仰を伝えることが大切です。

聖人の遺体を大切にする理由

カトリック教会では、聖人の遺体や遺骨を聖遺物として大切にする伝統があります。

これは、遺体そのものを神として拝むことではありません。聖人の体が地上で祈り、隣人に仕え、キリストを証ししたことを記憶するためです。

聖アンブロジオが二人の遺体を教会へ移した出来事も、殉教者たちの信仰を教会全体の記憶として受け継ぐ行為でした。

目に見える遺体や墓を通して、目には見えない信仰の証しを思い起こしているのです。

聖ナザリオと聖チェルソ|ゆかりの地・芸術

二人の名前は、ミラノやブレシアの聖堂と宗教美術の中に受け継がれています。

サン・ナザロ・マッジョーレ聖堂

イタリア・ミラノにあるサン・ナザロ・マッジョーレ聖堂は、聖ナザリオと特に深い関係を持つ教会です。

4世紀に聖アンブロジオが建てた聖使徒大聖堂を起源とし、395年頃に発見されたナザリオの遺体が安置されました。

現在も初期キリスト教時代の遺構が残されており、ミラノにおけるキリスト教の歴史を伝える重要な場所となっています。

ミラノのサン・チェルソ聖堂

聖チェルソの遺体が発見された場所にも、チェルソを記念する教会が建てられたと伝えられています。

現在はサンタ・マリア・デイ・ミラコリ・プレッソ・サン・チェルソ聖堂の一部として、その名前が残されています。

ナザリオとチェルソが別々の場所で発見されながら、ともにミラノの殉教者として記憶されてきたことを伝える場所です。

ティツィアーノの「アヴェロルディ多翼祭壇画」

イタリア・ブレシアの聖ナザリオ・聖チェルソ教会には、ルネサンスを代表する画家ティツィアーノの「アヴェロルディ多翼祭壇画」があります。

1520年から1522年頃に制作された作品で、復活したキリストや聖セバスティアヌスとともに、聖ナザリオと聖チェルソが描かれています。

作品の中でナザリオは輝く鎧を着た大人の姿で描かれ、その後ろに若いチェルソが立っています。

二人の年齢差と、師弟として信仰をともにした関係が、ひと目でわかるように表現されています。

まとめ|今日の聖人から学べること

聖ナザリオと聖チェルソの詳しい生涯や殉教した年代は、歴史的にはわかっていません。

ガリアで出会い、ナザリオがチェルソに洗礼を授け、ドイツやイタリアで宣教したという物語は、後世に伝えられた聖人伝です。

一方、4世紀末に聖アンブロジオがミラノ郊外で二人の遺体を発見し、教会へ移したという出来事は、古い記録にも残されています。

大人の宣教者と若い弟子が、年齢の違いを越えて同じ信仰を守った姿は、信仰の道を一人で歩く必要はないことを教えてくれます。

誰かから受け取った信仰を、自分だけのものにせず次の人へ手渡していくこと。それが、聖ナザリオと聖チェルソの物語から学べる大切なメッセージです。