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聖ラウレンツィオ・ダ・ブリンディジ司祭教会博士

7月21日は、カトリック教会で「聖ラウレンツィオ・ダ・ブリンディジ司祭教会博士」を記念する日です。

ヘブライ語、ギリシャ語、シリア語を学び、聖書を原語で読み解いた神学者でした。

さらに、宗教改革によってカトリック教会が揺れていたドイツやボヘミアへ派遣され、各地で説教し、カプチン会の修道院を建てました。

ハンガリーでは従軍司祭として十字架を掲げて兵士を励まし、晩年には教皇や各国君主から託された外交使節として、争いの仲裁にも取り組みました。

その著作には、聖母マリアについての説教を集めた『マリアーレ』や、『創世記註解』などがあります。

聖書への深い理解と、説教によって人びとへ信仰を伝えた功績から、1959年に教皇ヨハネ23世によって「使徒的博士」と呼ばれる教会博士に宣言されました。

聖ラウレンツィオ・ダ・ブリンディジ|プロフィール

  • 名前
    ラウレンツィオ・ダ・ブリンディジ/Lawrence of Brindisi
  • 本名
    ジュリオ・チェーザレ・ルッソ
  • 生没年
    1559年7月22日〜1619年7月22日
  • 出身地
    南イタリアのブリンディジ
  • 修道会
    カプチン・フランシスコ修道会
  • 肩書き
    司祭、説教者、神学者、外交使節、教会博士
  • 教会博士としての称号
    「使徒的博士/Doctor Apostolicus」

聖ラウレンツィオの生涯

ブリンディジに生まれ、幼いころから説教の才能を示す

ラウレンツィオは、洗礼名をジュリオ・チェーザレといい、1559年に南イタリアの港町ブリンディジで生まれました。

父を早くに亡くした後、故郷のコンベンツアル聖フランシスコ会の修道士たちに預けられ、信仰と学問の教育を受けました。

当時のイタリアには、クリスマスの時期に少年が幼子イエスについて短い説教をする習慣がありました。

ラウレンツィオは幼いころから説教の才能を示し、人びとの前で力強く語ったと伝えられています。

16歳でカプチン会に入る

1575年、16歳になったジュリオ・チェーザレは、ヴェローナのカプチン会修道院に入りました。

そこで修道名として「ラウレンツィオ」を受けます。

カプチン会は、アシジの聖フランシスコの清貧と簡素な生活へ立ち返ることを重んじて生まれた修道会です。

ラウレンツィオも、祈り、共同生活、清貧、説教を中心とする修道生活を送りました。

修練を終えた後は、パドバなどで哲学と神学を学び、1582年に司祭となりました。

ヘブライ語・ギリシャ語・シリア語を学ぶ

ラウレンツィオの大きな特徴は、語学力にありました。

イタリア語とラテン語に加え、ヘブライ語、ギリシャ語、シリア語を学び、フランス語やドイツ語にも通じていました。

特にヘブライ語への理解は深く、ユダヤ教のラビたちからも尊敬されたと伝えられています。

彼は、翻訳された聖書だけでなく、原語とユダヤ教文献、教父たちの著作を参照しながら聖書を研究しました。

ユダヤ人への説教を任される

ラウレンツィオのヘブライ語と聖書理解に注目した教皇クレメンス8世は、彼にローマのユダヤ人への説教を任せました。

当時のカトリック側の宣教には、現代の宗教間対話とは異なる強い改宗の目的がありました。

それでもラウレンツィオは、相手が読んでいるヘブライ語聖書やラビ文献を理解し、感情的に攻撃するのではなく、聖書に基づいて論じようとしました。

ラビたちも、その語学力と聖書知識に感銘を受けたと伝えられています。

宗教改革で揺れるドイツとボヘミアへ向かう

16世紀のヨーロッパでは、マルティン・ルターから始まった宗教改革によって、西方教会が大きく分かれていました。

ラウレンツィオは1599年ごろから、ドイツ語圏やボヘミアにカプチン会を広げる任務を担いました。

プラハ、ウィーン、グラーツなどに修道院を設け、各地で説教を行います。

彼の目的は、政治的な力だけでカトリック信仰を守ることではありませんでした。

聖書と教父の教えに基づき、カトリックの教義を人びとへ説明し、信仰生活を立て直すことでした。

ルター派との論争で何を説明したのか

ラウレンツィオは、宗教改革を支持する人びとに対して、カトリック教会の教えを聖書と教父の著作から説明しました。

特に取り上げたのは、

・聖ペトロとその後継者である教皇の首位性
・司教職の起源
・義とされることは人間の内面的な変化を伴うこと
・信仰と善い行いの関係

などです。

彼は、ただ相手を非難するのではなく、争点となった教義の聖書的・教父的根拠を明らかにしようとしました。

バイエルン公マクシミリアン1世とカトリック諸侯を支える

ラウレンツィオは、バイエルン公マクシミリアン1世をはじめとするカトリック諸侯とも関わりました。

なお、「バイエルン公」と「マキシミリアノ1世」は別人ではありません。

マクシミリアン1世は当時のバイエルン公で、後に選帝侯となった人物です。

ラウレンツィオは、各地の君主と面会し、カトリック側の連携や教会の再建について助言しました。

ただし、彼は政治家として権力を求めたのではありません。

説教者・修道者として、教会共同体が安定し、人びとが信仰生活を続けられるよう働きました。

1601年、十字架を掲げてハンガリーの軍を励ます

1601年、ラウレンツィオは、オスマン帝国軍と戦う皇帝軍の従軍司祭を務めました。

戦いの舞台となったのは、ハンガリーのセーケシュフェヘールヴァールです。当時の文献ではアルバ・レアーレとも呼ばれます。

伝承によると、兵力で劣る軍が動揺する中、ラウレンツィオは十字架を手に兵士たちの先頭へ立ち、彼らを励ましました。

彼自身は武器を取らず、従軍司祭として祈りと説教によって兵士たちを支えたと伝えられています。

カプチン会総長としてヨーロッパ各地を巡る

1602年、ラウレンツィオはカプチン会の総長に選ばれました。

彼は各地の修道院を訪問し、修道士たちの生活を整えました。

交通手段が限られていた時代に、ヨーロッパ各地を徒歩で巡ったとされています。

また総長になる前後にも、神学教授、修練長、管区長、総参事など、多くの責任を担いました。

教皇と君主から外交任務を託される

ラウレンツィオは、説教者や神学者であると同時に、外交使節としても働きました。

教皇やカトリック諸侯から、君主間の対立を仲裁し、ヨーロッパ諸国の和解を促す任務を託されています。

彼が外交官として信頼されたのは、政治的な駆け引きの巧みさだけではありません。

修道者としての誠実さと、利害に左右されない姿勢が高く評価されていたからです。

教皇ベネディクト16世も、ラウレンツィオの特徴の一つとして、争いをおさめ平和を促す外交活動を挙げています。

ナポリの人びとの訴えをスペイン王へ届ける

晩年、ナポリ王国の人びとは、スペインから派遣された総督の統治に苦しんでいました。

有力者たちは、自分たちの訴えをスペイン王フェリペ3世へ届けるよう、ラウレンツィオに依頼します。

すでに健康を害していたラウレンツィオでしたが、人びとの苦しみを見過ごせず、スペインへ向かいました。

王がポルトガルに滞在していると知ると、さらにリスボンまで旅を続けました。

1619年、リスボンで亡くなる

ラウレンツィオは、スペイン王へナポリの人びとの訴えを伝えました。

しかし長い旅によって体力を失い、1619年7月22日、リスボンで亡くなりました。

遺体はスペインのビジャフランカ・デル・ビエルソに運ばれ、クララ会の修道院に葬られています。

聖ラウレンツィオの主な著書

『マリアーレ』|聖母マリアについての説教集

代表作の一つが、ラテン語で『Mariale(マリアーレ)』と呼ばれる聖母マリアについての説教集です。

聖母の無原罪の御宿り、神の母としての役割、キリストによる救いとの関係などが論じられています。

教皇ベネディクト16世も、ラウレンツィオを優れたマリア神学者として紹介し、『マリアーレ』を代表的な著作として挙げています。

『創世記註解』|天地創造を原語から読み解く

『Explanatio in Genesim』は、『創世記註解』と訳せる著作です。

主に『創世記』の冒頭部分を、ヘブライ語本文、ユダヤ教文献、教父たちの解釈などを用いて研究しています。

ラウレンツィオが20代後半のころに執筆したとされ、若い時期から高度な聖書解釈の力を持っていたことを示す著作です。

『ルター主義の概要』|宗教改革の主張を検討した論争書

1607年から1609年ごろ、ラウレンツィオは『Lutheranismi hypotyposis』を執筆しました。

日本語では、『ルター主義の概要』『ルター派教説の概観』などと訳せます。

これは、ルター派の教えとカトリック教会の教義を比較し、聖書と教父の著作を根拠にカトリック側の立場を説明した論争書です。

待降節・四旬節・主日・聖人についての説教集

ラウレンツィオは、特定の一冊だけではなく、典礼暦に沿った多数の説教を残しました。

全集には、次のような説教集が含まれています。

・『待降節説教集』
・『四旬節説教集』
・『主日説教集』
・『聖人説教集』
・『典礼季節説教集』

彼の説教は、聖書の引用を豊富に用いながら、神学の知識を一般の信徒にも理解できるよう伝えるものでした。

なぜ「使徒的博士」と呼ばれるのか

教会博士とは何か

教会博士とは、優れた学識を持っていた聖人すべてに与えられる称号ではありません。

その教えが教会全体にとって重要であり、信仰を理解するうえで長く価値を持つと認められた聖人に与えられます。

ラウレンツィオは、1881年に列聖され、1959年に教皇ヨハネ23世によって教会博士に宣言されました。

説教と行動を結びつけた「使徒的博士」

ラウレンツィオには、「使徒的博士」という固有の称号が与えられました。

「使徒的」と呼ばれるのは、書斎で神学を研究しただけではなく、説教、宣教、修道会の創設、外交、平和の仲介を通して、その学問を実際の教会活動へ結びつけたからです。

彼にとって、聖書を研究する目的は、知識を誇ることではありませんでした。

神の言葉を自分が生き、それを人びとへ伝えることにありました。

聖書を原語で読むことにどのような意味があったのか

翻訳だけでは分かりにくい意味を確かめる

聖書は、旧約聖書の多くがヘブライ語、新約聖書がギリシャ語で書かれています。

翻訳によって信仰の中心が失われるわけではありませんが、一つの語が持つ幅広い意味や、文章の細かなつながりは、原語を読むことでより深く理解できます。

ラウレンツィオは、ヘブライ語やギリシャ語を学び、聖書本文そのものに近づこうとしました。

聖書と教会の伝統を切り離さなかった

一方、ラウレンツィオは、聖書を個人の判断だけで解釈したわけではありません。

教父たちの著作や、教会が積み重ねてきた解釈も参照しました。

彼にとって聖書と教会の伝統は、対立するものではありません。

聖書を教会の信仰の中で読み、その教えを現代の人びとへ伝えることが大切でした。

聖ラウレンツィオの言葉から学ぶ

ラウレンツィオは、神の言葉について、次の趣旨の言葉を残しています。

「主の言葉は、知性にとっては光であり、意志にとっては火である」

神の言葉は、何が正しいかを頭で理解させるだけではありません。

神を愛し、実際に行動する力を人の心に与えるものだという意味です。

ラウレンツィオ自身、聖書を研究するだけで終わりませんでした。

説教し、修道院を建て、戦場で兵士を励まし、争う君主の間を仲介し、苦しむナポリの人びとのために旅をしました。

彼の生涯は、「知ること」と「行うこと」が分かれていませんでした。

カトリック的ポイント解説

聖ラウレンツィオの生涯で大切なのは、神の言葉と宣教の一致です。

彼は、多くの言語を学び、聖書や神学を深く研究しました。

しかし、それを自分の名声のためには使いませんでした。

学んだことを説教に生かし、信仰に迷う人びとを支え、教会の分裂に向き合いました。

また外交使節として働いたことからも分かるように、信仰を守ることは、争いを激しくすることだけではありません。

人と人、国と国の間に平和を取り戻すことも、キリスト者の使命です。

聖ラウレンツィオは、深い学問、祈り、説教、行動が一つになった「使徒的博士」でした。

聖ラウレンツィオ|ゆかりの地・芸術

ブリンディジ

ブリンディジは、ラウレンツィオが生まれた南イタリアの港町です。

古代から東地中海へ向かう玄関口として栄えました。

現在も故郷では、町を代表する聖人の一人として崇敬されています。

パドバとヴェローナ

ヴェローナは、16歳でカプチン会へ入った土地です。

パドバでは哲学と神学を学び、聖書学者・説教者としての基礎を築きました。

プラハ・ウィーン・グラーツ

ラウレンツィオは、中部ヨーロッパにカプチン会を広げるために働きました。

プラハ、ウィーン、グラーツなどは、宗教改革期の彼の宣教活動を象徴する都市です。

リスボンとビジャフランカ・デル・ビエルソ

リスボンは、ナポリの人びとの訴えをスペイン王へ届けた後、ラウレンツィオが亡くなった場所です。

遺体はスペインのビジャフランカ・デル・ビエルソへ運ばれ、受胎告知修道院に葬られています。

芸術では、カプチン会の茶色い修道服をまとい、聖書や十字架を持つ姿で描かれます。

また、十字架を掲げてハンガリーの兵士たちを励ます場面も、彼を象徴する題材です。

まとめ|今日の聖人から学べること

聖ラウレンツィオ・ダ・ブリンディジは、1559年に南イタリアのブリンディジで生まれ、16歳でカプチン会へ入った司祭です。

ヘブライ語、ギリシャ語、シリア語をはじめとする多くの言語を学び、聖書とユダヤ教文献、教父たちの著作を深く研究しました。

宗教改革期にはドイツやボヘミアへ赴き、説教や修道院の創設に取り組みました。

1601年には従軍司祭として十字架を掲げて兵士たちを励まし、その後は教皇や君主から外交使節として争いの仲裁を任されました。

著作には、聖母についての説教集『マリアーレ』、聖書を原語から読み解いた『創世記註解』、宗教改革の教義を検討した『ルター主義の概要』などがあります。