
7月18日は、カトリック教会で「聖パンボ修道士」を記念する日です。
聖パンボは、4世紀のエジプトで祈りと苦行の生活を送った「砂漠の教父」の一人です。
彼の名を最もよく表すのは、華やかな説教でも、多くの著作でもありません。
沈黙です。
パンボは、詩編39の冒頭にある「舌で過ちを犯さぬように」という言葉を聞くと、それを実際に生きられるようになるまで、次の教えを学ぼうとしなかったと伝えられています。
聖パンボ修道士|プロフィール
- 名前
パンボ/Pambo of Nitria - 生没年
4世紀。正確な生没年には諸説があります。 - 活動地
エジプトのニトリア砂漠 - 肩書き
修道士、隠修士、砂漠の教父 - 特徴
沈黙、断食、手仕事を大切にし、多くの修道者を導いた霊的な教師 - 記念日
7月18日
パンボは、エジプトのニトリア砂漠で修道生活を送り、知恵と謙遜によって多くの人から尊敬された人物です。後代の伝承では、聖大アントニオに連なる偉大な砂漠の修道者の一人として記憶されています。
聖パンボと「砂漠の教父」
砂漠の教父とはどのような人びとなのか
3世紀末から4世紀にかけて、エジプトやシリアなどの砂漠へ退き、祈りと禁欲の生活を始めるキリスト者が現れました。
彼らは、世の中そのものを憎んで逃げたのではありません。
人びとの評価や富、欲望、怒りといったものから距離を置き、静けさの中で自分の心と向き合い、神だけを求めようとしたのです。
こうした修道者たちは、後に「砂漠の教父」と呼ばれるようになりました。
「教父」といっても、全員が司教や学者だったわけではありません。
砂漠で実際に信仰を生き、その経験を求めて訪れる人びとに短い言葉を与えた、霊的な父たちです。
彼らの言葉や逸話は、のちに『砂漠の教父の言葉』として集められ、修道生活の発展に大きな影響を与えました。
ニトリア砂漠で修道生活を送る
パンボは、エジプト北部のニトリア砂漠で禁欲生活を送りました。
ニトリアは、初期キリスト教の修道生活が盛んになった重要な地域です。
後の修道院のような大規模な建物が最初からあったのではなく、修道者たちは小さな庵や洞窟などに住み、祈り、断食、聖書の黙想、手仕事を続けました。
パンボについては、特に次の三つが際立っていたと伝えられています。
日々の空腹、沈黙、手仕事です。
詩編39の言葉から始まった沈黙
「舌で過ちを犯さぬように」という言葉を聞く
パンボが修道生活を始めたころ、師から詩編39の冒頭を教えられました。
そこには、次の趣旨の言葉があります。
「わたしの道を守ろう。舌で過ちを犯さぬように」
パンボはこの言葉を聞くと、続きを教えてもらおうとしませんでした。
まず、この最初の言葉を実際に守れるようになりたいと考えたからです。
聖書を多く暗記するより、一つの言葉でも生きることを優先したのです。
半年間、師のもとへ戻らなかった
伝承によると、師はパンボがすぐに続きを学びに来ると思っていました。
しかしパンボは、半年たっても戻ってきませんでした。
理由を尋ねられると、まだ最初の一節を行えるようになっていない、と答えたといわれます。
さらに長い年月を経た後にも、彼はその教えを完全には身につけていないと語りました。
パンボにとって、聖書を「知る」とは、その内容を説明できることだけではありません。
言葉が自分の態度や習慣を変えるところまで、心に受け入れることでした。
18年たっても「まだ学び終えていない」
伝承の一つでは、パンボは18年たった後も、この一節をまだ完全には学び終えていないと語ったとされます。
もちろん、18年間一言も話さなかったという意味ではありません。
不用意な言葉、人を傷つける言葉、自分を正当化する言葉を慎み、話す前に心を整える修行を生涯続けたということです。
一つの聖書の言葉に長くとどまり、それを自分の生活へ落とし込む。
ここに、砂漠の教父らしい聖書の学び方があります。
なぜパンボは沈黙を大切にしたのか
話さないこと自体が目的ではない
パンボの沈黙は、単に無口になることではありません。
人との会話を拒絶したり、質問に答えなかったりすることが、無条件に聖なるわけでもありません。
彼が沈黙によって目指したのは、心の中にある怒り、虚栄心、悪口、軽率さに気づくことでした。
人は話しているうちに、自分をよく見せようとしたり、相手を傷つけたり、確かでないことを広めたりします。
だからこそ、口から言葉を出す前に、心の動きを見つめる必要があると考えたのです。
沈黙は、神と人の声を聞くためのもの
沈黙とは、ただ音がない状態ではありません。
自分の主張をいったん止め、神の言葉や目の前の人の声に耳を傾ける態度です。
パンボは、多くを語って人を感動させるより、静かな生き方そのものによって、祈りの大切さを示しました。
その沈黙には、無関心ではなく、注意深さがありました。
総司教にも沈黙で答えた聖パンボ
総司教から言葉を求められる
あるとき、アレクサンドリアの総司教テオフィロが砂漠の修道者たちを訪ねました。
集まった兄弟たちはパンボに、総司教のために何か霊的な言葉を語るよう求めました。
砂漠の偉大な教師から、心を打つ教えを聞かせてほしいと考えたのでしょう。
しかしパンボは、すぐには何も語りませんでした。
「沈黙に感動されないなら、話にも感動しない」
周囲の修道者たちが、総司教のために何か話すよう重ねて頼むと、パンボは次のように答えました。
「もし総司教がわたしの沈黙によって益を受けないなら、わたしの言葉によっても益を受けないでしょう」
これは、言葉に価値がないという意味ではありません。
パンボ自身も、必要なときには人を導く言葉を語りました。
しかし、立派な話を聞くだけで人が変わるわけではありません。
語る人の生き方と、聞く人の受け取る心が伴わなければ、どれほど巧みな説教も心に残らないと知っていたのです。
沈黙そのものが教えとなった
パンボの前に座った人びとは、話を聞く前に、彼がどのように落ち着き、どのように人を見つめ、どのように神の前に立っているかを感じたのでしょう。
そのため彼にとって、沈黙と説教は反対のものではありませんでした。
長い沈黙によって整えられた短い言葉だからこそ、人の心に届いたのです。
聖パンボが学んだ二つの教え
「自分の正しさを信頼してはいけない」
パンボは師から、
「自分の正しさを信頼してはいけない」
と教えられたと伝えられています。
これは、自分には何の価値もないと思い込むことではありません。
自分は必ず正しい、自分の判断には間違いがない、と考えないことです。
人は善いことをしているときにも、自分を誇ったり、他人を見下したりすることがあります。
パンボは、自分の努力や徳を誇るのではなく、いつも神のあわれみに頼ることを学びました。
「過ぎ去ったことを悲しみ続けてはならない」
もう一つは、
「過ぎ去ったことを悲しみ続けてはならない」
という教えです。
これは、罪や失敗を反省しなくてよいという意味ではありません。
自分の過ちを認め、悔い改めた後も、いつまでも過去に縛られ、自分を責め続けないことです。
必要なのは、過去を何度も思い返して絶望することではなく、今日から再び神へ向かって歩き始めることです。
この二つの教えは、互いにつながっています。
自分の正しさを誇らず、自分の過ちにも絶望しない。
謙遜に現在を生きることが、パンボの修道生活の土台でした。
聖パンボはなぜ偉大な教師と呼ばれたのか
難しい理論より、実際の生き方を教えた
パンボは、多くの書物を残した学者ではありません。
彼の教えは、短い言葉と具体的な行動によって伝えられました。
言葉を慎むこと。
空腹を受け入れること。
手を動かして働くこと。
自分を正しいと思い込まないこと。
過去に縛られないこと。
どれも理解するだけなら難しくありません。
しかし、毎日の生活で実践し続けるのは簡単ではありません。
パンボが尊敬されたのは、自分が実践していないことを人に教えなかったからです。
尋ねられても、すぐには答えなかった
砂漠の教父たちは、何か質問されると、すぐに答えないことがありました。
まず沈黙し、祈り、本当に必要な言葉だけを選びました。
パンボも、軽々しく答えを与える教師ではありませんでした。
相手を驚かせる名言より、その人が神へ近づくために本当に必要な言葉を重んじたのです。
砂漠の教父たちは修道院制度に何を残したのか
修道生活の基本を実践によって示した
初期の砂漠の修道者たちは、後世のように整った修道院制度や詳細な規則を最初から持っていたわけではありません。
彼らは、祈り、断食、労働、沈黙、聖書の黙想、霊的な父への従順を、日々の生活の中で試みました。
その経験が後に整理され、共同生活を行う修道院の規則や霊性へ受け継がれていきます。
パンボの生き方も、沈黙と労働を大切にする修道生活の模範の一つとなりました。
短い言葉が後世の修道者を導いた
砂漠の教父たちの言葉は、最初は口伝えで受け継がれました。
やがてギリシャ語などで書き留められ、多くの修道者に読まれるようになります。
それらは、体系的な神学書というより、実際の悩みに対する短い助言です。
怒りをどう扱うか。
祈りができないときはどうするか。
人を裁かないためにはどうすればよいか。
沈黙とは何か。
こうした問いへの教えが、修道院の内外で長く読み継がれてきました。
聖パンボの沈黙から現代の私たちが学べること
発言する前に、一度立ち止まる
現代では、思ったことをすぐに言葉にできます。
会話だけでなく、メールやSNSを通して、感情のままに発信することもできます。
だからこそ、パンボの沈黙は古い砂漠だけの教えではありません。
この言葉は本当か。
相手を傷つけないか。
今、語る必要があるか。
自分を正当化したいだけではないか。
一度立ち止まることで、言葉はより誠実になります。
聖書を「読んだ数」より「生きたか」で考える
パンボは、詩編の続きを早く覚えることより、最初の一節を生きることを選びました。
聖書をたくさん読むことは大切です。
しかし、読んだ言葉が日常の選択を少しも変えないなら、知識だけが増えてしまいます。
一つの言葉でも心にとどめ、それに照らして一日を過ごす。
パンボの姿は、聖書を生活の中で読む方法を教えています。
カトリック的ポイント解説
聖パンボの生涯で大切なのは、沈黙と言葉の節制です。
キリスト教における沈黙は、人間関係から逃げることではありません。
神と人の声を正しく聞くために、自分の内側の騒がしさを静めることです。
また、言葉の節制は、何も話さないことではありません。
真実で、必要で、人を生かす言葉を選ぶことです。
パンボは、一つの詩編の言葉を生涯かけて学びました。
その姿は、神の言葉を知識として所有するのではなく、自分自身が神の言葉によって変えられていくことの大切さを示しています。
聖パンボ修道士|ゆかりの地・芸術
ニトリア砂漠
聖パンボのゆかりの地は、エジプトのニトリア砂漠です。
ここは、4世紀のキリスト教修道生活が発展した代表的な地域の一つでした。
多くの隠修士が小さな庵に住み、祈りと労働を続け、助言を求めて訪れる人びとを導きました。
芸術で描かれる聖パンボ
聖パンボは、長いひげをたくわえた老修道士として、簡素な修道服や粗末な衣を身につけた姿で描かれます。
巻物や聖書を持つ姿、砂漠の庵で祈る姿も見られます。
彼を象徴するのは、豪華な装飾品ではなく、静かな表情と砂漠の簡素な風景です。
まとめ|今日の聖人から学べること
聖パンボは、4世紀のエジプト、ニトリア砂漠で祈りと苦行の生活を送った砂漠の教父です。
詩編39の「舌で過ちを犯さぬように」という言葉を聞くと、それを実際に生きられるようになるまで、次の教えを学ぼうとしませんでした。
また、総司教のために感動的な言葉を語るよう求められたときには、
「わたしの沈黙に感動されないなら、わたしの話にも感動されないでしょう」
と答えました。
聖パンボは、言葉の多さではなく、沈黙の中で整えられた生き方こそが、人の心を動かすことを教えてくれます。
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