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聖マリア・マグダレナ・ポステル修道女

7月16日は、カトリック教会で「聖マリア・マグダレナ・ポステル修道女」を記念する日です。

聖マリア・マグダレナ・ポステルは、教育を受けられない子どもたちのために学校を開いたフランスの修道女です。

フランス革命によって教会や修道院が弾圧されたときにも、子どもの教育をやめませんでした。

さらに、自宅に司祭をかくまい、国外への逃亡を助けるなど、危険を冒して教会を支えました。

革命後には同志を集め、教育と慈善を目的とする修道会を創立しました。([マリア・マグダレナ・ポステル][2])

聖マリア・マグダレナ・ポステル|プロフィール

  • 名前
    マリア・マグダレナ・ポステル/Marie-Madeleine Postel
  • 本名
    ジュリー・ポステル/Julie Postel
  • 生没年
    1756年〜1846年
  • 出身地
    フランス北西部、ノルマンジー地方の港町バルフルール
  • 肩書き・役職
    修道女、教育者、修道会創立者
  • 記念日
    7月16日

聖マリア・マグダレナ・ポステルの生涯

ベネディクト会の学校で教育を受ける

ジュリー・ポステルは、1756年11月28日、ノルマンジーの小さな港町バルフルールに生まれました。

修道会の公式資料では、裕福な貴族の娘ではなく、縄を作る職人の家庭に生まれた女性とされています。

ジュリーは若いころ、ヴァローニュにあるベネディクト会の修道女たちから教育を受けました。

そこで信仰と学問を身につけましたが、自分がその修道院へ入ることが神から示された道ではないと感じます。

彼女が望んだのは、修道女たちが自ら働きながら、貧しい人びとに仕える共同体でした。([マリア・マグダレナ・ポステル][2])

1774年、貧しい少女たちのために学校を開く

故郷へ戻ったジュリーは、1774年、まだ18歳のころに学校を開きました。

対象としたのは、家庭の事情によって十分な教育を受けられない少女たちです。

当時、貧しい家庭の子ども、とりわけ女子が教育を受けられる機会は限られていました。

ジュリーは、子どもを厳しい罰で従わせるのではなく、一人ひとりの理解力と良心を信じる教育を大切にしたと伝えられています。([マリア・マグダレナ・ポステル][2])

フランス革命で宗教活動が厳しく制限される

1789年に始まったフランス革命では、教会や修道院が解散させられ、教会財産も没収されました。

多くの司祭が追放や逮捕の対象となり、公にミサをささげたり、信仰教育を行ったりすることも難しくなります。

ジュリーが続けてきた学校と宗教教育も、以前と同じ形では行えなくなりました。

自宅に司祭をかくまい、国外への脱出を助ける

それでもジュリーは、信仰を守る働きをやめませんでした。

追われている司祭を自宅にかくまい、漁船を使ってイギリスへ逃れるのを助けたと伝えられています。

また、家の階段下に聖体を隠し、病人に聖体を届けました。

子どもたちへの教育や、初聖体の準備も秘密裏に続けています。

見つかれば自分も処罰される危険がありましたが、彼女は苦しむ人と教会を見捨てませんでした。

革命後、教育活動を再開する

フランス革命後、宗教活動への制限が緩和されると、ジュリーは再び教育に力を注ぎます。

彼女にとって教育は、読み書きを教えるだけの仕事ではありませんでした。

子どもたちが神を愛し、人を大切にし、貧しい人を助ける心を育てることを目指していました。

革命の混乱によって傷ついた社会を立て直すには、次の世代を育てることが必要だと考えていたのでしょう。

1807年、同志とともに修道会を創立する

1807年、51歳になったジュリーは、3人の女性とともに新しい共同体を創立しました。

最初の名称は「貧しい慈悲の娘たち」とされ、教育と慈善を大切にする共同体でした。

ジュリーは修道名として「マリア・マグダレナ」を選び、共同体を導いていきます。

住む場所を得られず、長い苦労が続く

修道会を作れば、すぐに活動が安定したわけではありませんでした。

彼女たちは、教育を行う場所と住まいを求めて、何度も移転を余儀なくされます。

新しい教育方法への反発を受けたり、共同体から離れる者や亡くなる者が出たりしました。

周囲から活動をあきらめるよう勧められても、マリア・マグダレナは歩みを止めませんでした。

76歳で荒廃した修道院を買い取り、自ら再建する

1832年、76歳になったマリア・マグダレナは、サン・ソヴール・ル・ヴィコントにあった旧ベネディクト会修道院の廃墟を手に入れました。

建物はひどく荒れ、すぐに住める状態ではありませんでした。

それでも彼女は高齢の身でありながら、修道女たちとともに修道院の再建に取り組みます。

住居や礼拝堂を整え、荒れた庭も再び使えるようにしました。

37の共同体を残して亡くなる

マリア・マグダレナ・ポステルは、1846年7月16日に亡くなりました。

そのころには、彼女が始めた共同体は37か所に広がり、150人の修道女と20人の修練者がいたと、現在の修道会は伝えています。

なぜマリア・マグダレナ・ポステルは聖人になったのか

危険な時代にも子どもの教育をやめなかった

マリア・マグダレナが尊敬される第一の理由は、教育を安全な時代だけの仕事にしなかったことです。

教会が弾圧され、自分の身にも危険が及ぶ状況でも、子どもたちに学ぶ機会と信仰を伝え続けました。

彼女にとって教育は、社会的な成功を得るためだけのものではありません。

一人ひとりが神から愛された存在であることを知り、他者を助けられる人になるためのものでした。

信仰を言葉ではなく行動で示した

彼女は、司祭をかくまい、国外への脱出を助け、病人に聖体を届けました。

それは、信仰について語るだけでなく、危険の中にいる人を実際に守る行動でした。

教育、司祭への援助、病人への奉仕は別々の活動ではありません。

どれも、弱い立場に置かれた人を見捨てないという一つの信仰から生まれていました。

聖マリア・マグダレナ・ポステルの言葉から学ぶ

彼女には、次の言葉が伝えられています。

「一人の人をキリストへ導くためなら、私は地の果てまで行くでしょう」

この言葉は、困難が続いても活動をやめなかった彼女の生涯をよく表しています。([マリア・マグダレナ・ポステル][2])

大勢の人から認められることよりも、目の前の一人を大切にすること。

それが、彼女の教育と奉仕の原点でした。

カトリック的ポイント解説

聖マリア・マグダレナ・ポステルの生涯で大切なのは、教育と慈愛を分けなかったことです。

知識を教えるだけでは、彼女の教育とはいえません。

神に愛されていることを知り、その愛を貧しい人や苦しむ人へ手渡せる人を育てることを目指しました。

また彼女は、環境が整うのを待ってから働いたのではありません。

革命、迫害、貧困、移転、仲間の死といった困難の中で、その時にできることを続けました。

信仰とは、理想的な条件の中だけで生きるものではないことを、彼女は示しています。

聖マリア・マグダレナ・ポステル|ゆかりの地・芸術

聖マリア・マグダレナ・ポステルのゆかりの地として大切なのは、バルフルールシェルブール、そしてサン・ソヴール・ル・ヴィコントです。

バルフルールは生まれ故郷であり、最初の学校を開いた町です。

シェルブールは1807年に修道会を創立した場所、サン・ソヴール・ル・ヴィコントは晩年に修道院を再建し、共同体の拠点を築いた場所です。

芸術では、修道服を着て子どもたちを教える姿や、十字架や書物を持つ姿で描かれます。

革命下で司祭を守る姿や、荒廃した修道院を再建する場面も、彼女の生涯をよく表す題材です。

まとめ|今日の聖人から学べること

聖マリア・マグダレナ・ポステルは、1774年に教育を受けられない少女たちのための学校を開いた修道女です。

フランス革命によって宗教活動が厳しく制限されても、子どもの教育を続け、司祭をかくまい、病人に聖体を届けました。

1807年には同志とともに教育と慈善を目的とする修道会を創立し、晩年には荒廃した修道院を自ら再建しました。

聖マリア・マグダレナ・ポステルは、社会がどれほど不安定でも、子どもを育て、弱い人を支える働きをあきらめてはならないと教えてくれます。