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聖ボナヴェントゥラ司教教会博士

7月15日は、カトリック教会で「聖ボナヴェントゥラ司教教会博士」を記念する日です。

聖ボナヴェントゥラは、パリで神学を学び、優れた著作を残した学者でした。

しかし、彼の特色は学識だけではありません。

約40歳でフランシスコ会総長となると、分裂の危機にあった修道会をまとめ、聖フランシスコの生涯を伝える公式伝記を書きました。

深い知性と祈り、統率力と謙遜をあわせ持っていたことから、後に「セラフィム的博士」と呼ばれるようになりました。([バチカン][1])

聖ボナヴェントゥラ|プロフィール

  • 名前
    ボナヴェントゥラ/Bonaventure of Bagnoregio
  • 洗礼名
    ジョヴァンニ・ディ・フィダンツァ
  • 生没年
    1217年ごろ〜1274年
  • 出身地
    イタリア中部のバニョレージョ
  • 肩書き・役職
    フランシスコ会総長、枢機卿、アルバノ司教、教会博士
  • 呼び名
    セラフィム的博士

聖ボナヴェントゥラの生涯

幼いころ重病にかかり、聖フランシスコの取り次ぎで回復する

ボナヴェントゥラは幼いころ、命も危ぶまれる重い病気にかかりました。

医師だった父も助からないと思うほどでしたが、母はアシジの聖フランシスコの取り次ぎを願いました。

そして少年は回復したと、ボナヴェントゥラ自身が後に記しています。

この体験は、彼がフランシスコ会へ進むうえで大きな意味を持ちました。

パリで学んだ後、フランシスコ会に入る

青年となったジョヴァンニは、学問の中心地だったパリへ赴き、自由学芸を学びました。

そこで、福音的な清貧を生きるフランシスコ会の修道士たちに出会います。

その姿に心を動かされ、1243年ごろフランシスコ会へ入り、「ボナヴェントゥラ」という修道名を受けました。

パリで神学を学び、教える

入会後、ボナヴェントゥラはパリ大学で聖書やペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』を学び、神学者として成長しました。

彼の神学の中心にあったのは、単なる知識の蓄積ではなく、イエス・キリストを知り、愛し、神へ近づくことでした。

1257年には、ドミニコ会のトマス・アクィナスとともに、パリ大学から正式に神学教授として認められています。

約40歳でフランシスコ会総長となる

1257年、ボナヴェントゥラは約40歳でフランシスコ会総長に選ばれました。

当時のフランシスコ会は急速に拡大し、3万人を超える修道士が各地で活動していました。

その一方で、聖フランシスコの清貧をどのように受け継ぐかをめぐり、会の内部には深刻な意見の対立がありました。

ボナヴェントゥラは、祈りと慎重な判断によって共同体をまとめ、17年間にわたって修道会を導きました。修道会の分裂を防ぎ、生活の規則を整える

ボナヴェントゥラは、聖フランシスコの理想を守りながら、大きくなった修道会が現実に共同生活を続けられるよう規則を整えました。

1260年の総会では、彼がまとめた生活規範が採用されます。

彼は、ただ厳しい規則で人を抑えようとしたのではありません。

聖フランシスコの精神と教会への一致を守りながら、多様な兄弟たちが同じ方向へ歩めるようにしたのです。

聖フランシスコの公式伝記を書く

修道会を一つにするには、創立者である聖フランシスコの姿を正しく共有する必要がありました。

そこでボナヴェントゥラは、フランシスコを直接知っていた人びとの証言や資料を集め、『大伝記』を執筆します。

この作品は1263年、フランシスコ会が認める公式伝記となりました。

ボナヴェントゥラは、聖フランシスコを、キリストを深く愛し、その姿に変えられていった人として描きました。

なぜ「セラフィム的博士」と呼ばれるのか

ボナヴェントゥラは、トマス・アクィナスと並ぶ中世スコラ学の代表的神学者です。

トマスが「天使的博士」と呼ばれるのに対し、ボナヴェントゥラは「セラフィム的博士」と呼ばれます。

セラフィムは、神への燃える愛を象徴する天使です。

この呼び名は、彼の神学が理性だけでなく、神への愛、祈り、観想を重んじていたことを表しています。

知識は神への愛につながらなければならない

ボナヴェントゥラにとって、神学は難しい言葉を並べるための学問ではありませんでした。

神について知ることは、神を愛し、キリストに従うことへ向かわなければならないと考えました。

そのため、彼の著作には論理的な神学と、祈りに満ちた神秘思想が一つになっています。

代表作『魂の神への道程』では、被造物から神の痕跡を見いだし、キリストを通って神との一致へ向かう道を示しました。

1273年、枢機卿・アルバノ司教となる

1273年、教皇グレゴリウス10世は、ボナヴェントゥラを枢機卿・アルバノ司教に任命しました。

同時に、翌年開かれる第2リヨン公会議の準備という重要な任務を託します。

この公会議では、ラテン教会とギリシャ教会の一致回復が大きな課題となっていました。

リヨン公会議の途中で亡くなる

ボナヴェントゥラは、第2リヨン公会議に参加しましたが、その閉幕を見届けることなく、1274年7月15日にリヨンで亡くなりました。

学者として書物を残し、総長として修道会をまとめ、司教・枢機卿として教会の一致に尽くした生涯でした。

聖ボナヴェントゥラの言葉と神学から学ぶ

ボナヴェントゥラは、聖フランシスコの生き方を愛した理由について、初代教会の誕生と成長に似ているからだと述べています。

知恵ある人が計画して始めたのではなく、素朴な人びとを通してキリストが働いたという点に、彼は心を動かされました。

また彼の神学では、信仰は頭の中の理解だけで終わりません。

キリストの愛を知ることは、人の心を動かし、神への愛と実際の生き方へ結びつくべきものだと考えました。

カトリック的ポイント解説

聖ボナヴェントゥラの生涯で大切なのは、知性と愛の一致です。

彼は、中世を代表する高度な神学者でした。

しかし、知識が増えるだけでは人は神に近づけないと知っていました。

学びは祈りに支えられ、祈りは人をキリストへの愛と奉仕へ導かなければなりません。

また、修道会総長としての判断も、単なる組織運営ではなく、祈りと神学的な考察から生まれていました。

聖ボナヴェントゥラは、深く考えることと深く愛することは、信仰の中で一つになると教えてくれます。

聖ボナヴェントゥラ|ゆかりの地・書籍・芸術

聖ボナヴェントゥラのゆかりの地として大切なのは、バニョレージョパリラ・ヴェルナリヨンです。

バニョレージョは生まれ故郷、パリは学問と教育、修道会総長選出の舞台となった土地です。

ラ・ヴェルナでは、代表作『魂の神への道程』を著したとされ、リヨンは公会議に尽くし、生涯を終えた場所です。

芸術では、フランシスコ会の修道服を着て書物を持つ姿や、枢機卿の赤い帽子、司教杖とともに描かれます。

聖フランシスコやトマス・アクィナスと並んで表されることもあります。

まとめ|今日の聖人から学べること

聖ボナヴェントゥラは、幼いころ重病から回復し、青年期にパリで学んだ後、フランシスコ会へ入った聖人です。

1257年、約40歳で修道会総長となり、分裂の危機にあったフランシスコ会をまとめました。

また、聖フランシスコの公式伝記を書き、深い神学と神への愛を結びつけたことから「セラフィム的博士」と呼ばれました。

晩年には枢機卿・アルバノ司教となり、第2リヨン公会議の準備に尽くしました。

聖ボナヴェントゥラは、学ぶことの本当の目的は、知識を誇ることではなく、神をより深く愛し、その愛を生きることだと教えてくれます。