シモンとその兄弟アンデレの召還
イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。
彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
湖上にて「主よ、お助けください」
イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。
するとペテロが答えて言った、
「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」
イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。
イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。舟の中にいた者たちはイエスを拝して、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。
天国のかぎを授けられるペテロ
イエスは彼らに言われた、
「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」
シモン・ペテロが答えて言った、
「あなたこそ、生ける神の子キリストです」
すると、イエスは彼にむかって言われた、
「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である
そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。
そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」
イエスの逮捕時のペテロ「そんな人は知らない」
ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。
するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、
「あなたが何を言っているのか、わからない」。
そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。
そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。
(マタイによる福音書)
イエスの墓にて
マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。
そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、
「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」
そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。
シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。
(ヨハネによる福音書)
外典である『ペトロ行伝』では、ペテロはローマへ宣教し、ネロ帝の迫害下で逆さ十字架にかけられて、67年殉教したとされている。また、ペトロが迫害の激化したローマから避難しようとアッピア街道をゆくと、師のイエスが反対側から歩いてくた。彼が「主よ、どこへいかれるのですか?(Domine, quo vadis?)」と問うと、
イエスは「あなたが私の民を見捨てるのなら、私はもう一度十字架にかけられるためにローマへ」と答えた。
彼はそれを聞いて悟り、殉教を覚悟してローマへ戻ったという。この時のペトロのセリフのラテン語訳「Quo vadis?(クォ・ヴァディス。「どこへ行くのですか」の意)はよく知られるものとなり、1896年にはポーランドのノーベル賞作家ヘンリック・シェンキエヴィチがローマにおけるキリスト教迫害を描いた同名小説を記し、同名タイトルで映画化されている。
カトリック教会ではペトロを初代のローマ教皇とみなす。これは「天国のかぎ」をイエスから受け取ったペトロが権威を与えられ、それをローマ司教としてのローマ教皇が継承したとみなすからである。
ローマの郊外であったバチカンの丘のペトロの墓と伝えられる場所に、後世になって建てられたのがサン・ピエトロ大聖堂(聖ペトロの大聖堂)である。
サン・ピエトロ大聖堂の主祭壇下にはペトロの墓所があるという伝承が伝えられていたが、謎とされていた。しかし1939年以降、ピウス12世は考古学者のチームにクリプタ(地下墓所)の学術的調査を依頼した。
すると紀元2世紀につくられたとされるトロパイオン(ギリシャ式記念碑)が発見され、その周囲に墓参におとずれた人々のものと思われる落書きやペトロへの願い事が書かれているのが見つかった。さらに中央部から丁寧に埋葬された男性の遺骨が発掘された。
1世紀の人物で年齢は60歳代、堂々たる体格をしていて、古代において王の色とされていた紫の布で包まれていた。
1949年8月22日のニューヨーク・タイムズはこれこそペトロの遺骨であると報じて世界を驚かせた。さらに1968年にパウロ6世はこの遺骨が「納得できる方法」でペトロのものであると確認されたと発表した。