アッシジの聖フランチェスコ3
シモーネ・マルティーニ〈アッシジのキアラ〉
フランシスコ会「小さき兄弟団」の発展
ローマから帰って、兄弟たちはアッシジ郊外リボトルトの小屋に住んだ。そして、病人の世話や肉体労働、そして托鉢と説教をおこなった。その後、ポルチウンクラに戻ると、小聖堂のまわりに小屋を建てて住むようになった。無所有をつらぬいたフランチェスコは、毎年家賃として1かごの魚を送ることでベネディクト会からポルチウンクラの小聖堂を借りていた。兄弟団はここを拠点にした。
兄弟団に加わった人々は、2人1組で宣教の旅にでた。そして、毎年の聖霊降臨祭にはポルチウンクラにもどり、総会を開いた。1217年には、国外への宣教が開始され、最初は苦労するものの、ヨーロッパ中から入会希望者が集まるようになっていく。この「小さき兄弟団」の発展をサポートしたのは、オスチア大司教のウゴリーノ枢機卿(後のグレゴリウス9世)である。彼は兄弟団に助言をあたえ、後見人となった。
この頃、鳥に向かって説教をした話、狼を説得して噛みつくのは止めるという同意をとりつけた話などが生まれた。その他、うさぎ、魚、水鳥、蝉、コウロギなどのエピソードもある。
また、この頃には女性も加わってきた。アッシジの貴族の娘であるキアラ(クララ)は、フランチェスコの考えに共鳴して、1212年の枝の「主日の夜(復活祭の一週間前の日曜日)にもう一人の女性をともって家をでた。フランチェスコによる剃髪の後、近隣の女子修道院に身をよせて清貧の生活を送りながら、手仕事で生計を立てた。病人などへの奉仕活動に身をささげ、現在クララ会と呼ばれているフランシスコ会第二会(女子修道会)である。
ジョット〈スルタンの前に立つフランチェスコ〉
フランチェスコ、イスラーム世界へ
フランチェスコは、イスラーム世界への宣教にも意欲をもっていた。1209年から1212年に船に乗ってシリアに向かったが、船が難破してダルマチア沿岸に漂着して断念した。1212年から1214年には殉教覚悟でモロッコをめざしたが、途中のスペインで病をなって引きかえした。1219年には、ついに第5次十字軍が駐留するエジプトにわたった。
フランチェスコはまずダミエッタの町を包囲していた十字軍に対して戦闘の中止を呼びかけたが、十字軍の行為に幻滅を覚えた。その後、ともを一人連れただけでイスラーム陣営に乗り込んで、スルタンのメレク・アル=カーミルと会見し、キリスト教への改宗を迫った。スルタンは改宗には応じなかったものの、フランチェスコは丁重にもてなされたという。
この席でフランチェスコはイスラーム法学者との対決を望み、神明裁判を持ちかけたとされている。すなわち、燃えさかる炎の中に飛び込んで、どちらに神の庇護があるかを競おうというのである。フランチェスコ伝のこの有名なエピソードは、近代以降は史実に根拠を持たない伝説と考えられていた。
しかし、カイロに保存されているある墓碑銘によれば、その時期にイスラム法学者がキリスト教修道士と有名な試みを行ったとされており、この伝説も再考されつつある。
スルタンによって十字軍陣営に送り届けられたフランチェスコは、エルサレムなどの聖地巡礼を行っていたが、イタリアから急を告げる使者がやってきてイタリアに戻ることになった。
(ウィキペディアより)
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